2017年10月05日

体内時計に従い、不規則な生活をやめれば健康になる

'17年10月5日(木)    
[体内時計] ブログ村キーワード

夜遅くに時刻を聞かれ、
お手伝いさんが言った。
「もう、12時で
 ございます」。
森鴎外はよほど
気にくわなかったのか、
大声でどなった。
「もうとはなんだ。
 まだ12時と
 なぜいわん」
◆評論家の内田魯庵が
居宅での目撃談を随筆に
書き留めている。
寝る間を惜しんで文学に
励んだ鷗外は折にふれ、
「人間は2時間寝れば
 たくさんだ」と
語っていた
(『思い出す人々』岩波文庫)
◆はばかりながら、
理不尽ですよ、鷗外先生と
言いたくなるのは、
今や現代の多くの人が知る
医学知識のせいだろう。
「体内時計」である。
これに逆らう
不規則な生活が様々な
病気を招き寄せるらしい
◆解明は30年ほど前になる。
ホルモン分泌などの機能が
一定時刻に働くことを
発見した米国の3学者に、
ノーベル賞が贈られる
ことが決まった。
身近な例は睡眠だろう。
お手伝いさんの
「もう」は極めて正しい。
そればかりか
心配の気持ちも伝わる
◆鷗外のほか、
睡眠を削って何かに
突き進んだ人と言えば、
野口英世やナポレオンが
浮かぶ。芸能界では
明石家さんまさんに似た
風評がある。
立志伝を読むとき、
くれぐれも
影響されませぬよう。
(編集手帳 讀賣新聞10/4)
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2017年10月04日

研究者はノーベル賞を目標にしているわけではないが

'17年10月4日(水)
[ノーベル賞] ブログ村キーワード

物理学者の湯川秀樹が
昭和24(1949)年に、
日本人として初めて
ノーベル賞を受賞した
ことは誰もが知っている。
ただそれ以前にも、
血清療法を創始した
北里柴三郎や黄熱病の研究で
知られる野口英世ら、
候補に挙がった日本人も
少なくない

▼そのなかでもっとも賞に
近づいたとされるのが、
病理学者の山極勝三郎で
ある。その生涯を描いた
映画が昨年末に公開されて、
話題になったばかりだ。
東京帝大教授だった山極は、
ウサギの耳にコールタールを
塗り込んで、皮膚がんの
発生に成功する

▼もっともそれより
2年早い1913年に、
デンマークのフィビゲルが
寄生虫に感染した
ゴキブリをネズミに食べ
させて、胃がんを作ったと
発表していた。
2人は26年のノーベル医学・
生理学賞の候補者として
最後まで残り、フィビゲルが
受賞する。ところが26年後、
フィビゲルの研究の誤りが
明らかになった。
ノーベル賞の歴史の汚点の
一つに数えられる

▼山極は、世界初の
人工がんの作製者の栄誉を
取り戻した。それでも、
「幻のノーベル賞」に
終わったことに、
日本の学界としては納得が
いかない。日本人だから、
差別されたのではないか。
そんな疑問の声が根強く
残った

▼ただ科学史の専門家に
よると、戦前であっても
ノーベル賞の選考は
おおむね公平に行われて
きた。まして21世紀の
科学の世界で、国籍や
人種によって研究成果の
評価が変わるとは、とても
思えない。
ここ数年のノーベル賞の
日本人受賞ラッシュを
見ても、明らかである

▼今年も、
医学・生理学賞を皮切りに、
ノーベル賞の発表が
始まった。日本人は
はしゃぎすぎ、との批判の
声もある。
わかっちゃいるけど、
夕方のニュース速報に
一喜一憂する、特別な
1週間である。
(産経抄 産経ニュース10/3 05:04)
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2017年10月03日

競り勝つ畑岡奈紗が見たかった日本女子オープン連覇

'17年10月3日(火)
[畑岡奈紗] ブログ村キーワード

ゴルフ・日本女子オープン
最終日(1日・千葉我孫子
GC=6706㍎、パー72)――
首位で出た畑岡奈紗が
2位に8打差をつける
通算20アンダーで圧勝し、
アマチュアだった昨年に
続いて連覇を達成した。
18歳261日での
国内メジャー2勝目、
ツアー3勝目は、
これまでの最年少記録を
更新した。
2位は12アンダーの
申ジエ(韓国)。
アマチュアの小倉彩愛
(さえ)(岡山操山高2年)が
11アンダーで3位に入り、
ローアマを獲得した。
鈴木愛は10アンダーで
4位だった。

大観衆の中を、畑岡が
ゆっくりと歩いていく。
最終18番。
「すごく見られている」。
観衆に笑顔を見せる。
2位には8打差。
国内メジャー2勝目は、
雰囲気を楽しむ余裕が
あった。

一人だけ異次元のゴルフ
だった。
厳しいピンの位置に
多くの選手が苦しむ中、
次々とバーディーを重ねた。
パー5で2オンを
可能にするドライバー、
ピンを直接狙えるアイアン
ショット。
「テンポだけを気をつけた」
というパットもさえた。

そんなプレーができたのは、
「20アンダー」の目標を
掲げたからだ。
「優勝争いの相手が
 目の前にいると、
 自分のプレーができない
 ことがあるけど、
 『20』という明確な目標が
 あれば、それだけに集中
 できる」

4日間を通して、スイングは
一切乱れなかった。
今季、米ツアーの厚い壁に
はね返されたが、
トレーナーから
「(今、成績が)悪くても、
 トレーニングしていれば
 必ず良くなるから」
と励まされ、足腰の強化を
続けてきた。それが生きた。

この勝利で、
米ツアーへの思いは
いっそう強まった。
「色々な国籍の同世代の
 選手と競り合える
 プレーヤーになりたい。
 今は(行きたい気持ちが)
 9割くらい」。
米ツアー挑戦1年目の今季は、
「気持ちばかり空回りした」。
次は、万全の状態で
世界に挑むつもりだ。
(小石川弘幸)
(讀賣新聞10/2 21(スポーツ)面)


宮里藍の体格を
米ツアー参戦には
懸念材料だと思った。
畑岡は宮里より
4a大きな1b58。
ころころしていて
パンチ力はありそう
である。
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2017年10月02日

高いものを見上げて人生の設計図を描いているか

'17年10月2日(月)    
[通天閣] ブログ村キーワード

常に私は通天閣を仰いで
自分の人生の設計図を
描いていた

藤本義一の言葉(1987年)

通天閣108b。
上って街を見下ろすか、
下から見上げるか。
直木賞作家の藤本義一は
後者を好んだ。

台本を手がけた舞台や
映画には通天閣が
登場するが、
若いころ上がったことは
ほとんどなく、
もっぱら足元の繁華街、
大阪・新世界にいたらしい。
塔の30年誌に
「常に私は通天閣を仰いで
 自分の人生の設計図を
 描いていたことになる」
と書いている。

塔は2代目だ。
明治期に建った初代は
戦時中、火災で焼け解体
された。
新世界の商店主らが
なけなしの金を集めて
再建したのが
「もはや『戦後』ではない」
と経済白書がうたった
1956年。藤本は学生だった。

妻の統紀子さん(82)が
結婚前に連れていって
もらった新世界は、
荒々しい労働者の街という
風情だった。
串カツ屋の勘定は、
食べた串の数。
ごまかそうと客が
足元に落とした串も、
店主は涼しい顔で数えて
いた。
多少のインチキはさらりと
かわす、たくましさと、
おもしろさ。

「新世界は、人生で
 何かをつかもうとする
 若い男の子が
 粋がって行く場所でした」

藤本は、スリの一家や
貧しい芸人長屋など、
体を張って地べたに生きる
人々を描いた。
テレビの人気司会者になり
直木賞を取っても、
塔の行事に協力するなど
縁は続く。
99年、通天閣のロゴの
揮毫(きごう)
頼まれたときは本当に
うれしそうだったという。

5年前に藤本が逝く。
今年は61周年になる塔は
といえば、周囲に
高い建物ができて随分
小さくなった。
「あべのハルカス」
(300b)からはおもちゃ
みたいに見える。
新世界も、今や家族連れや
大勢の外国人観光客が
詰めかける変貌ぶりだ。

高みから世間を見晴らす
ぜいたくに
慣れてしまっても、
飾り気のない鉄骨の下に
立てば、
皆で何かを仰ぎ見た時代の
気分がよみがえる。

「アッチが大阪城です!」

てっぺんの屋外展望台では、
本業の身入りが少ない
若手芸人が交代で案内に立つ。
18歳で香川から来た
ピン芸人福神(ふくがみ)
よしきさん(27)が
「暑いっす。日焼け止め
 塗りまくりっす」
と汗をぬぐった。
四苦八苦で夢に手をのばす
人がこの街によく似合う。
(文・森川暁子)
(名言巡礼 地べたから見上げた夢
 讀賣新聞10/1 日曜版1面)

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2017年10月01日

良き指導者と本人の研究心と、成功には不可欠

'17年10月1日(日)
[野村克也] ブログ村キーワード

「私のプロ野球80年史」
 ――野村克也氏

選手時代は
通算本塁打数が歴代2位の
657本、
監督時代はデータ重視の
「ID野球」で数々の
成果を上げた球界屈指の
名将が、自分の80年の
人生を振り返った。
「私の人生はほぼ
 日本のプロ野球の歴史と
 重なる。振り返ることで
 野球界への提言にもなる」
と語る。

経歴だけ見ると
華やかな野球人生に
思えるが、京都の
貧しい母子家庭に育った
苦労人だ。
「当初は野球選手になる
 つもりはなく、歌手や
 俳優にも挑戦した。
 早くお金を稼いで
 母を楽にしたかった」。
苦しい家計の中、
野球選手への道を
後押ししてくれた
母との思い出も本書に
盛り込んだ。

偶然新聞で
南海の入団テストの
知らせを見つけて応募。
当初は1軍の戦力外
である「ブルペン捕手」
とみなされていたが、
逆境をバネに猛練習を重ね、
正捕手の地位を得た。
65年に初めて三冠王に
なったときは、母が
一番喜んでくれた。
「母がいなかったら
 私の野球人生はない」
と感謝する。

監督としては
南海時代の選手兼監督に
加え、ヤクルト、阪神、
楽天で指揮を執った。
いずれも「弱小球団」
ばかり。
相手のクセやデータを
分析し、格上のチームを
倒した。
あらゆる手段を駆使して
敵チームの選手からも
弱点を聞き出した逸話は
興味深い。

スーパースターだった
巨人の王・長嶋に対して
自らを「月見草」と
自嘲するなど
「アンチ巨人」の印象が
強いが、もとは
川上哲治さんに憧れた、
熱烈な巨人ファン。
「川上監督が率いた
 V9時代の巨人は
 従来の精神野球ではなく、
 データ重視の
 メジャーリーグ戦法を
 持ち込んだ。
 私のID野球の原点も
 ここにある」

今の球界は
「監督のレベルが下がった」
と感じる。
「監督は
 知名度やスター性でなく、
 いかに選手を
 育てられるか。
 野球哲学が必要」。
目下気になるのが
「二刀流」の大谷翔平選手。
「すごい才能。私だったら
 どう育てるか。
 つぶしたら
 監督の責任だな」。
監督時代、代名詞となった
「ボヤキのノムさん」は
健在だ。
(小学館・1500円)
(あとがきのあとがき
 日本経済新聞9/30
 29(読書)面)

posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする