2017年07月21日

米国にとって中国は旧ソ連よりも影響力のある国

'17年7月21日(金)
[弾圧] ブログ村キーワード

旧ソ連で流刑の身の上に
あった反体制物理学者、
サハロフ博士は、決断を
迫られていた。
重い病気の妻になんとか
海外の病院で治療を受け
させたい。
自ら心臓病を抱える博士が
選んだ方法は、ハンガー
ストライキだった

▼欧米諸国からは、一斉に
ソ連非難の声が上がった。
モスクワを訪れた
ミッテラン仏大統領は、
サハロフ問題を正面から
取り上げた。
そんな圧力が功を奏した
のか、夫人の一時出国が
認められる。夫妻の流刑が
解除されたのは、
その1年後の1986年12月
である

▼今月13日に亡くなった
中国の民主活動家、
劉暁波氏は、これまで
どんな弾圧を受けようと
国を去ろうとしなかった。
ところが死の直前になって、
米国やドイツでの
末期がんの治療を望むよう
になる。
昨日の矢板明夫記者の記事で、
合点がいった。
劉氏は妻と出国すれば、
自分が死んでも妻は外国で
自由になれる、と考えたのだ。
その最後の願いさえ、
中国当局は拒否した

▼サハロフ博士と劉氏は、
ともにノーベル平和賞を
受賞しながら、授賞式に
その姿がなかったという
点でも共通している。
ただ、サハロフ博士の夫人は
代わりに出席できた。
劉氏の場合は、家族の出席
さえ許されなかった

▼劉氏がより悲惨な境遇を
強いられた理由は何か。
一言でいえば、国際社会の
中国に対する弱腰である。
ドイツで開かれていたG20で、
各国の首脳から劉氏の話題が
出ることはなかった

▼米国の首都ワシントンでは
1980年代、ソ連の人権抑圧に
抗議するため、
ソ連大使館前の通りが
「サハロフ・プラザ」と
改称された。上院は昨年、
同様に中国大使館前を
「劉暁波プラザ」と
名付ける法案を可決した。
もっとも、オバマ大統領は
拒否権発動の構えを見せ、
実現しなかった。
(産経抄 産経ニュース7/20 05:04)
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2017年07月20日

日野原重明さんを変えたハイジャック犯から借りた本

'17年7月20日(木)    
[日野原重明] ブログ村キーワード

ドストエフスキーは
『カラマーゾフの兄弟』の
巻頭に新約聖書を引いて
いる。
<一粒の麦もし地に落ちて
 死なずば唯一つにてあらん。
 もし死なば多くの実を
 結ぶべし>。
日野原重明さんはその一節を
印象深く読んだという
◆これほど異常な状況下の
読書もない。
1970年(昭和45年)3月、
赤軍派にハイジャック
された日航機「よど号」の
機中である。
ましてや、人質の乗客に
向けたサービスで用意した
ものか、犯人から借りた
本である
◆「業績をあげて
 有名な医師になる。
 そういう生き方は、
 もうやめた。
 生かされてある身は
 自分以外のことに
 ささげよう」
◆当時58歳の日野原さんは
心に誓ったという。
「よど号」から
生還したとき、名声と
功業を追い求める麦は
一度死んだのだろう。
“生涯現役”の医師として、
健康で豊かな老いの
あるべき姿を
体現しつづけた。
誓いどおりの第二の人生に、
どれだけ多くの高齢者が
励まされたことか。
日野原さんが105歳で
死去した
◆いまでは、語感も
軽快な「アラハン」
(=100歳前後の人)なる
言葉が少しも不自然に
聞こえない。
その人が残した麦の実の、
何と豊穣なことよ。
(編集手帳 讀賣新聞7/19)

わが選挙区選出の衆院議員
山村新治郎はソウルから
乗客の身代わりとして、
北朝鮮に向かった。
「よど号」事件と言えば
忘れられない出来事である。

参考
希望は胸の内にあり、願望は外にあるもの 
102歳の医師日野原重明氏が語る「いのち」と「人生」 
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2017年07月19日

足場なしには建物は立たない、この国では根回しとも

'17年7月19日(水)
[内閣改造] ブログ村キーワード

池田勇人首相にとって、
「7月18日」は
特別な日だったのか。
4回の内閣改造を
この日に断行している
◆参院選、自民党総裁選
といった直近の節目が
契機だったが、
日取りに関しては、
「末広がり」だとして
漢字の「八」を意識した
らしい。
『池田政権・一五七五日』
から引いた
◆1961年の改造では
河野一郎、佐藤栄作、
三木武夫氏らが入閣し、
前例のない「実力者内閣」
と称された。逆に
側近起用と派閥順送りが
目立ち、「秘書官内閣」と
やゆされたことも。
必ずしも期待通りに運ばず、
今も昔も人事の難しさは
同じである
◆安倍首相は来月上旬に、
内閣改造と
自民党役員人事を行う。
加計学園問題への批判
などで内閣支持率が下落
した中で、
「安定感と改革突破力を
 兼ね備えた態勢」を
整える、と語った
◆一筋縄でいかない
政治家を一つの枠の中に
収めることは容易ではない。
誰から交渉するか、
どういう話し方をするか、
その前にどんな手を打って
おくか。
<足場なしには建物は
 たたない>。
池田首相秘書官だった
伊藤昌哉氏は、
過程の大切さを説いた。
験を担ぐのもよいが、
入念な足場作りをお忘れ
なく。
(編集手帳 讀賣新聞7/17)
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2017年07月18日

われは海の子であることを忘れさせられた日本国民

'17年7月18日(火)
[われは海の子] ブログ村キーワード

♪われは海の子 白浪の…。
「われは海の子」は、
明治43(1910)年の
尋常小学読本唱歌に掲載
されて世に出た。
作者不詳とされてきた
名曲の作詞者が明らかに
なったのは、約80年後の
平成元年である

▼決め手となったのは、
北欧文学者、宮原晃一郎の
一人娘が保存していた手紙
だった。
宮原は文部省の詩の
懸賞募集に、「海の子」と
題した作品を応募していた。
その入選通知が
残っていたのだ

▼12年7月20日の
「海の日」には、宮原の故郷、
鹿児島市の海を望む公園に
歌碑が建てられた。
「年末の第九のように、
 海の日には日本中で
 この歌が歌われるように
 なればいい」。
除幕式では、こんな声が
上がっていた。大賛成だが、
ただ一つ条件がある

▼歌碑には、3番までの
歌詞が刻まれている。
海辺に生まれ、たくましく
育つ少年が主人公である。
実は歌詞はまだ続く。
少年はやがて鍛え抜いた
体を持つ青年となり、
大海原にこぎ出していく。
終戦後、GHQの指導で
文部省唱歌から
追放されたのは、
7番の歌詞が原因だった

▼♪いで大船を乗り出して 
 われは拾わん海の富 
 いで軍艦に乗組みて 
 われは護らん海の国。
この部分が、軍国主義を
想起させるというのだ。
昭和33年から
再び教科書に載るように
なったものの、3番まで
しか歌われなくなった。
久しぶりに全曲を聴いて
みた。やはり海洋国家、
日本にふさわしい名曲で
ある

▼日本近辺の海底には、
豊富な資源が眠っている
ことがわかってきている。
尖閣諸島周辺での
領海侵犯を常態化させて
いる中国の公船は、
九州北部海域の領海にまで
侵入を始めた。
海の富、海の国を守る
覚悟をいよいよ固める時で
ある。
今日(17日)の「海の日」、
「われは海の子」を
7番まですべて歌う日と
したい。
(産経抄 産経ニュース7/17 05:03)

参考
YouTube〜われは海の子〜 ダーク・ダックス 

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2017年07月17日

山本五十六の言葉は、教育や子育ての基本理念である

'17年7月17日(月)    
[リーダー] ブログ村キーワード

やって見せ 
 説いて聞かせて
 やらせてみ
 讃めてやらねば
 人は動かぬ

 山本五十六の言葉


真珠湾攻撃を指揮した
連合艦隊司令長官・
山本五十六は、
部下に対して、厳しくも
温かい人だった。

「やって見せ 説いて
 聞かせて やらせてみ
 讃めてやらねば
 人は動かぬ」。
リーダーたる者の神髄で
あろう。

この言葉を、山本自ら
書き残したものは見つかって
いない。
故郷・新潟県長岡市にある
曹洞宗堅正寺の住職が、
友人だった山本の信条として
講話集の中で紹介した。

「褒める」でも、「誉める」
でもない。
「讃める」と書く。

「馬鹿な奴をおだてる
 と云うことではなく、
 共に喜ぶことなので
 あります」。
住職は講話でそう解説して
いる。

「率先垂範」を旨とする
海軍では同様の訓戒が、
さまざまな言い回しで
受け継がれていたようだ。

だから、似た言葉が
他の提督の名前で
伝えられても不思議ではない
のだが、山本の
「やって見せ――」が
人口に膾炙しているのは、
時流に抗して和平を唱え続け、
開戦しても早期講和に
つながる戦果を得ようと
真珠湾作戦の賭けに出た
指揮官に、海軍でも傑出した
リーダー像を見いだすから
だろう。

昭和18年(1943年)4月、
山本の乗った飛行機が
南太平洋ブーゲンビル島で
撃墜された。
危険だからと止める部下を
制し、最前線の将兵の
激励に向かう途上だった。

故郷に立つ
「山本五十六記念館」に、
長官搭乗機の
無残にちぎれた左翼が
展示されている。
昭和が終わり平成が始まった
年(89年)、墜落地の
密林から最期の翼は運ばれた。

長岡の夏は暑く、冬の雪は
ずっしりと重い。
自然の厳しさは、
うまい米や酒を生み、
寡黙に働く人を育てる。

郷土史家の稲川明雄さん
(72)によれば、山本は
「越後の男らしく
 不言実行が美学の人。
 だから思いが
 十分に伝わらないことも
 あった」。

真珠湾の成功から半年、
ミッドウェー海戦に敗れ、
日米の形勢は逆転する。
戦局が思うようにいかない
中で山本自身、時代や
人を動かすことの難しさを
誰より感じていたのでは
ないか。その言葉は、
無念の胸中だったかもしれ
ない。(文・保高芳昭)
(名言巡礼 讀賣新聞7/16
 日曜版1面)


昨今、教育や子育てに
最も応用されていない手法
である。
躾けの行き届かない子供が
大人になっていく。


posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする