2012年12月28日

愛され続けた勘三郎さんの葬儀に万を超える参列者

'12年12月28日(金)
[中村勘三郎] ブログ村キーワード

歌舞伎俳優の中村勘三郎
さんの葬儀が27日、
東京・築地本願寺で営まれ、
著名人や関係者が2000人、
一般弔問客1万人が
参列した。

親交のあった人は大勢いる。
笑福亭鶴瓶もそのうちの
一人。


「今日(27日の葬儀
 ではない)
 お別れをしてから
 来たんです。
 この前の7月、
 勘三郎が入院する前に
 仲間内でちょっとした
 パーティーをしたんです。
 そこで、ちょっと
 驚かしたろ思ってね。
 僕はちょうど
 ブータンでの撮影から
 帰ったばかりだったから、
 ブータン国王の格好して
 行ったんです(笑)。
  
 そういう悪ふざけが
 できたのも、
 あの人やったから
 です。
 あの人だから、
 面白いことをつきつめ
 ようという思いを
 受け止めてくれたんや
 と思います。
 寂しいですよね、
 そういう人間がいなく
 なるというのは------- 」

鶴瓶は取材中に嗚咽を
漏らした。
芸を愛するがゆえの
遊び心があった。
お互いへの尊敬があった。
そして親友でありながら、
戦友でもあった。
それだけに勘三郎の無念が、
よくわかっていた。

テレビタレントとして
絶頂にいた鶴瓶は、
50歳を超えてから突然、
落語を始めた。
その新たな挑戦を応援して
くれたのが、勘三郎だった。

'07年、鶴瓶は古典落語
『らくだ』をひっさげ、
落語ツアーを行った。

東京の歌舞伎座をはじめ、
伝統ある劇場8ヵ所での
公演。
落語を始めて4年目で、
横綱のような演目を選んだ
ことに、プレッシャーが
ないはずがなかった。
笑はもらえた。
だが、自分が自分でない
かのような高座に、
納得がいかなかった。

初日の夜、鶴瓶は、
悔しくて泣いた。
しかし、歌舞伎座で観客
として高座を見ていた
勘三郎は、鶴瓶にこう
言った。
「公演前は、
 『なんであなたが
  古典落語なんか
やるの。
  そんなことしなくても、
  日常の話をするだけ
  でも十分面白い
  じゃないの』と
 反対してたんです。
 ところが見終わったら、
 良かった、と言うて
 くれて。
 『あなたがあんな
  アガっている姿

  見たことがない。
  それは、伝統に敬意を
  持っている証拠

  だから、あなたは
  古典落語をやるべき
  人だ』と。うれし
 かった。同時に、
 この人にはかなわんな、
 と思いました」

「(春風亭)小朝さんの
 落語会にゲストとして
 呼んでもらったんですよ。
 客寄せパンダでええんか
 な、と思うていたら、
 ちゃんとした落語を
 やってくれ
と。
 僕は師匠から稽古を
 つけてもらったことが
 なかったんです。

 そのころ師匠は、
 すでに亡くなって
 いました。

 それで弟子のいなかった
 桂文紅師匠に稽古を
 お願いしたんです」

(鶴瓶は高座でこう語る。) 
「僕の落語のテーマは
 “愛”なんです。
 人間はいずれは死ぬん
 ですよ。
 死ぬと思うてなくても
 死ぬんです。
 志半ばでも、持って
 行かれる。
 簡単に死んでしまう。
 短い人生なんだから、
 人を好きでいたい
 面白いことをやり
 続けたい。
 やり続けて、死にたい
 です。勘三郎も
 同じ思いだったと
 思います。
 クサいと思われるかも
 しれませんが、
 人生って、笑いって、
 愛なんですよ」
(笑福亭鶴瓶「笑いにおいで」
 取材・文/上田徹
 週刊現代'13/1/5・12抜粋)

  
  
◆桂文珍
「落語の方にも目を届けて
 くれて愛情を注いでくだ
 さって、舞台を見せて
 いただいて演じる身として
 励みをいただきました。
 あの根性の入れ方はすごい。
 全身からほとばしる
 パワー
はすごかったです。
 本当にあの人がいるだけで
 周りの人が幸せになる
 ようなお方
でした。
 せっかちというより、
 ターボがかかって
 フルパワー。
 いつも全力で駆け抜ける
 お方
でした。
 本当にありがとう
 ございました。それのみ
 です」
(ORICONSTYLE12/27 16:04)
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2012年09月16日

忘年会までに間に合うカラオケの腕を上げる法

'12年9月16日(日)
[秋桜] ブログ村キーワード

今時、花を咲かせる秋桜
(コスモス)は畑に自生
していて、時季を忘れない。

車で移動中のカーラジオで
山口百恵の秋桜を聴いた。
さだまさしの作詞作曲で
ある。

淡紅の秋桜が秋の日の
何気ない陽溜まりに
揺れている

此の頃 涙脆くなった母が
庭先でひとつ咳をする
(略)

ありがとうの言葉を
かみしめながら
生きてみます 私なりに
こんな小春日和の
穏やかな日は
もう少しあなたの
子供でいさせてください

さだのジャンルはフォーク
ソングやニューミュージック
(Wikipedia)なのだろうか。

歌はジャンルに合った
歌い方
があるようである。

以前、演歌の川中みゆきが
この曲を歌ったとき
後半の盛り上がりのあたりで
込み上げるものがあって
「歌えません・・・」と
歌うのを止めたことがあった。

演歌は浪曲のように
感情移入が重要な歌唱法
だろうが、
この歌い方は
このジャンルの歌には
相応しくない。

しかし、歌うために
必要な共通した努力はある
と思う。

日本テレビのオーデション
番組『スター誕生!』の
審査員を10年務められた
故松田トシさんは、
お腹から声を出すことと
言葉をはっきりさせること
には厳しかった審査員で
あった。
山口百恵も
この番組の出演(準優勝)が
きっかけで
芸能界デビューした。

耳を悪くすると、
耳にハンデを持った人の
言葉が記憶に残る。
エッセイスト麻生圭子さんは
耳がご不自由だそうで、
会話は耳だけでは、
子音が聴き取れないので、
前後の脈絡や、
イントネーションや
アクセント、唇の動きを
見ながら聴き取るそうだ。

このことから考えるのだが、
子音をはっきり発音
すれば、心に届く歌になる
ように思う。
サザンオールスターズの
桑田佳祐はTSUNAMIの中で
“人は誰も”というフレーズを
“人はじゃれも”と歌う。
彼なりの言葉をはっきりさせよう
とする努力がそんな形で出ている
のだろう。

英語の曲を歌うときも
母音よりもむしろ子音を明瞭に
発音するように心掛ける
と、
日本人離れした
垢ぬけした歌になるように思う。

参考に多くの歌手が
入れ替わり立ち替わりして
歌うYouTubeの
「We Are the World」を
掲げる。

今から練習を始めれば
忘年会までに大分持ち歌に
磨きがかかるだろう。

ちなみに、働いていた団体の
「The Beatles」ファンの
代表に、
彼らのジャンルは何か、と
テストされたことがあった。
周りの誰も即答できなかったが
正解はロック。
ジャンルは観賞する上でも
大切にしたい違いである。

参考
YouTube-秋桜/さだまさし
YouTube-秋桜/山口百恵
YouTube-We Are the World
posted by (雑)学者 at 00:16| 千葉 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | エンタメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月05日

明石屋さんまを聖徳太子に例えて称える長部日出雄氏

'12年9月5日(水)
[司会] ブログ村キーワード

4日朝のTBSテレビ
はなまるマーケットに
女優の大竹しのぶさんが
出ていた。

大竹しのぶといえば
明石屋さんまの元妻。

引退した島田伸介や
活躍中の明石屋さんまの
当意即妙な司会ぶりを
高く評価する人が多い。

明石屋さんまの番組に
出演したことのある
小説家長部日出雄氏が
聖徳太子に例えて称える
エッセイを書いている。


聖徳太子といえば、
多くの人はまずあの話を
おもい出すのでは
なかろうか。

いっぺんに10人の訴えを
聞いて、
全部ちゃんと理解した
という話である。

もとになっているのは、
『日本書紀』の「推古紀」
に出てくる挿話で、
原文はこうだ。

「一(ひとたび)
 十人(とたり)の訴えを
 聞きたまいて、
 失(あやま)ちたまわず
 して能(よ)
 弁(わきま)えたもう」

これを現代では、
10人がいっぺんに
がやがやと喋ったのを、
ちゃんと10通りに
聞き分けた・・・などという
解釈が行われているが、
そんなばかな話がある
訳がない。

当時、わが国の人びとは、
各各の地域によって
甚だしく異なる方言で、
お互いの意思を通じ合って
いた。

私は、兄が戦死した場所で
あるフィリピン・ルソン島
北部山岳地帯の秘境
マヨヤオを3度訪ね、
通訳を介していろいろと
話を聞いたが、
そこで話される
マヨヤオ方言は、
山ひとつ越えればもう
通じない、
といわれていた。

聖徳太子は、
さまざまな地域から
朝廷にやって来て、
次から次へと異なった
外国語のような言葉で話す
10人の訴えを、
それぞれ的確に聞き取って
記憶する卓越した言語感覚
と頭脳の持主で、
だからこそ「豊聡耳命
(とよとみみのみこと)
とも「八耳命
(やつみみのみこと)
とも称されて尊ばれた
のである。

「聡」の文字が示す通り、
古代において「耳」と
「頭」のよさ、感覚の鋭さ、
判断力と記憶力のよさは、
切り離せないものだった。

この耳の一点だけ取っても、
聖徳太子と私との間の距離は、
限りなく遠い。

若いころから、話す声が
野放図に大きかった。
声が大きい人は、耳が遠い、
といわれるが、まさにその
通りで、中年のころから
耳が遠く、老来ますます
聴力が乏しくなってきた。

それでも補聴器をつけよう
とはおもわない。
自分の老化をはっきりと
目にみえる具体的な形で、
人に示すのが厭なのである。

そのかわりに、耳の後ろに
片手をあてがって、
幾らかでも聞こえやすく
する。
老化を目に見える形で
示している点では、
補聴器と同じではないかと
おもわれるかもしれないが、
この方が、
「私は貴方の話を
 よく聞いていますよ」
という積極的な意思表示に
なる気がする。

ぼくの人生で、
いちばん聖徳太子に近いと
おもわれたのは、
明石屋さんまさんだ。

いまから二十数年まえ、
明石屋さんまさんが司会
する
<テレビくん、どうも!>
というフジテレビのトーク
番組に、“ゲージツ家”の
篠原勝之さんと一緒に
3年ほどレギュラー出演
したことがある。

レギュラーといっても、
私の場合は名ばかりで、
時速140キロ台の快速球で
交わされるプロ同士の
トークに全く入りこめず、
たださんまさんの横で
口を開けて笑っている
ばかりで、
「笑う書き割り」などと
いわれていたのだが、
しかしその間、
どんな球でも鮮やかに
打ち返すさんまさんの
天才ぶりを、
すぐ側で全身的に実感する
ことができた。

いまだと日本テレビの
<踊る!さんま御殿!!>で、
毎回12、3人ずつのゲスト
を相手に、さんまさんは
一人一人違った芸風の
タレントの話のポイントを
的確に捉え

それぞれのキャラクターに
合わせたツッコミやボケで

間髪を入れず即座に反応する。

絶妙なリアクションのもとに
なっているのは、
厖大な数のボキャブラリー
脳裏に蔵する記憶力と、
その中からその場にいちばん
合った言葉を瞬発的に
選び出す判断力
で、
つまりあれが現代の聖徳太子
なのである。

じっさい、さんまさんほど
後に続く世代の多くの
お笑いタレントの尊敬を
一身に集めている存在は
いないだろう。

聖徳太子に近づく道は、
何よりもまず
耳を研ぎ澄ますことだ。
(小説家長部日出雄
 聖徳太子と明石屋さんま
 ラジオ深夜便 ‘12/9no.146
 NHKサービスセンター)


参考
 笑う書き割り
  建物や風景などの
  背景を描いた大道具
  (同エッセイ注記)
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | エンタメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月08日

バイオリニスト千住真理子さんがマネた五輪選手のメントレ

'12年8月8日(水)
[オリンピック] ブログ村キーワード

音楽の世界も一発勝負。
負けたら終わりの
五輪のアスリートたちと
同質の緊張感で
演奏家は舞台に臨む。

トップ・アスリートを
真似た本番対処法を
バイオリニスト
千住真理子さんが語る。

「無」の境地で舞台に立つ
バイオリンに挫折した
その昔、
立ち上がるために
オリンピック選手を
手本にしたことがある。

長くバイオリンを弾かない
ということは
演奏家にとって自殺行為。
「一生バイオリンを
 持たない」という
間違った覚悟を決め
ステージを離れた
ダメージは大きかった。
再びバイオリンを弾こうと
決めた私を待っていたのは、
まさに地獄のような日々。
練習で弾けても
本番では弾けない。
本番5分前まで弾けるのに
ステージに立つと
一気に自信を失う-----。

そんな時、
オリンピック選手の
メンタルトレーニング法
について勉強した。
横になり
心を落ち着かせて
自分が勝利し
表彰台に立つことを
イメージするという。

心が行動を支配する仕組み、
脳が身体の筋肉を
つかさどるということは
長年研究され続けている。
限界を超えるほどの
練習量と身体の調整、
その中で選手は自信を
身に付ける。
しかし、最も重要なのは
心のあり方なのだ。

経験がないほうが
いろいろ考えず成功する
場合もある。
経験者は成功の経験だけ
でなく
さまざまな失敗の体験も
身体で記憶しているからだ。
「絶対に成功させたい」
という強い願望は
「もしや」という想像も
呼び起こす。
「自分は大丈夫だ」
と自分に言い聞かせるが、
「自分を信じる」のは
実は最も難しい。
自分のことは自分が
一番よくわかっている
からだ。
他人をだませても自分を
だますことはできない。
限界まで追い詰められた
とき、不安材料が浮かび
思考を混乱させる。

さて、私の場合、
20歳から2年間の空白後、
再びステージに出るように
なってからの7年間は
「絶望」の連続だった。

どうにか抜け出したいと
もがいた私は、
10時間を超える練習に
加え、さまざまな
メンタルトレーニングを
試行錯誤した。

「問題は脳だ」と考えた。
脳が身体の筋肉や神経を
支配するなら、
逆行すればいい。
脳をリラックスさせる
ためにさまざまなことを
試した。
声を出して笑う、
身体をブラブラほぐす、
ガムをかむ、
独り言を言う、
考えすぎて
パニックに陥るのを防ぐ
ため何も考えない

つまりこれが「無」の
境地なのかもしれない。

本番前、控室で部屋を
真っ暗にする。
椅子を並べて横たわり、
考えない努力をする。
頭の中に浮かんでくる
さまざまな雑念を
一つずつつまみ出す
イメージだ。
そうして約30分、
脳がスッキリ、
ニュートラルになると、
そのまま本番へ向かう。
訓練で蓄積された身体に
身を任せて

「無」であり続けようと
努力
をする。
これが今、私が得た
本番対処法だ。

まだまだ続くロンドン・
オリンピック。
興奮した応援合戦の渦の
中、期待された選手に
降りかかるさまざまな
試練-----。
どうか選手の心が
「無」となり
静かに燃えるのを願いたい。
(バイオリニスト
 千住真理子 音に命あり
 産経新聞8/6 1面抜粋)


参考
YouTube-高嶋ちさ子×千住真理子×千住明




posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | エンタメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月20日

「長崎クン」と呼ばれた下積み時代の福山雅治

'10年8月20日(金)
[龍馬] ブログ村キーワード

タレントとしてスポットライトを
浴びるまでには、本人の強い
意志と周囲の応援が欠かせない。
「福山雅治」の誕生秘話も
その通りであった。


青年が差し出した履歴書には、
「趣味・音楽」と記されていた。
20歳。写真は貼られていな
かった。

「ごく普通の好青年、
 という感じ。
 去年も会ったけれど、
 当時はまだ童顔だった
 せいか背も高くなった
 気がする。まさか、
 あんなにカッコよく
 化けるとは思いません
 でしたよ」
と、福生市内の材木店で、
店主が振り返る。

20年後の今、NHK大河
ドラマ『龍馬伝』の主役
福山雅治(41)にも
苦節の時代があった。

「ピザ屋では訛りがある
 ことから『長崎クン』
 と呼ばれ、店の
 イメージに合わない
 とクビに」(同前)

「髪型は角刈り風。
 暑い時は
 手拭で作ったねじり
 ハチマキを締めて
 働いていた。
 細身だったけど、
 仕事の覚えは
 早かったね」(同前)

福山自身、
当時の思い出をラジオで、
東京で初めて触れる、
あたたかさだった。
美人三人娘の誰かと
一緒になって、
このまま材木商を継ぐのも
いいかなぁ、と回想
している。

「皆で一緒にカラオケに
 行ったことも一、二度
 あったけど、当時は、
 福山も荒削りというのか、
 今ほど歌が
 上手くなかった(笑)
 そんな福山を
 励ましていたのが、
 その頃、うちに勤めていた
 Nさん夫婦。
 Nさんは元演歌歌手で、
 凄く歌がうまかった。
 とくに奥さんは、
 毎晩のように晩御飯を
 御馳走しては
 『夢を諦めちゃだめよ』
 『希望を持って頑張り
  なさい』って応援して
 いたそうですよ」(同前)

「彼は一言でいえば、
 友達を作る天才だった。
 どこへ行っても
 現場の大工に好かれて
 いましたよ。
 カラオケでも、
 周りの空気を読んで、
 皆が分かる歌謡曲
 なんかを歌ったりする。
 わずか半年しか
 いなかったのに、
 律儀に顔を見せて
 くれたり、ライブに
 呼んだりしてくれる
 んです」(同前)

何者でもない、しかし、
常に人が集まってくる若者。
『龍馬伝』の主人公は、
若き日の福山の反映なの
かもしれない。
(週刊文春 8月12日・19日
 文藝春秋 抜粋)


参考
福山雅治「蛍」
美空ひばり 龍馬残影
posted by (雑)学者 at 09:28| 東京 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | エンタメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする