2014年11月20日

ストイックに徹した高倉健さん、悪性リンパ腫で亡くなる

'14年11月20日(水)
[高倉健] ブログ村キーワード

“健さん”と呼ばれ、
日本映画界の
中心スターとして活躍した
俳優で文化勲章受賞者、
高倉健さんが
悪性リンパ腫のため、
亡くなった。

映画ジャーナリストの
田中宏子さんは
健さんの人となりを
エピソードを交えて
紹介している。


寡黙で折り目正しく
ストイックで
情に厚い・・・・・。
役の上でもプライベート
でも、古き良き日本人の
体現者だったと思う。

昨年秋に文化勲章を
受賞したとき、
こんなコメントを発表
した。
「今後も、この国に生まれて
 よかったと思える
 人物像を演じられるよう

 人生を愛する心、
 感動する心を養いたい
 と思います」

初めてお会いしたのは
昭和63年。
北アフリカのサハラ砂漠を
訪ねたときだ。
視界がゼロになる砂嵐に
何度も襲われる中、
連日深夜までの撮影を
続けていた。
「役者として
 金を稼ぐだけなら
 もっと楽な仕事を
 選びます。
 よく分からないんですけど、
 自分の中で
 何かを求めているものが
 ある
のでしょう。
 どんなに過酷でも、
 それを苦しむか
 楽しむかは心のスイッチ一つ
 
じゃないでしょうかね」
芝居には役者個人の
 生き方が出る
」と、
常に語っていた。
撮影現場では
休憩中も立ち続けた。
椅子に座ると
 緊張感がなくなる
から」
とのことだが、
スタッフへの気配り
あったのだろう。

平成11年の「鉄道員」
北海道ロケでは、
「北極にも南極にも
 行ったので、寒さは
 苦にならない。
 若いスタッフが
 体調を崩さなければ
 いいのですが・・・・」と、
周囲を気遣った。

だから、スタッフや
俳優仲間から敬愛された。
健さんにあこがれて
芸能界に入った
小林稔侍さんも、その一人。
「鉄道員」で
共演した際には
「稔侍君はですね、
 本番で感情を出さずに
 ガスを出したんですよ。
 たぐいまれな俳優です」
と言って大笑い。
ユーモアも持ち合せていた。

今、健さんにいただいた
サイン入の万年筆を手に
取ると、改めて
悲しみが込み上げてくる。
(産経新聞11/19 
 29(社会)面抜粋)

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2014年09月17日

作詞家山口洋子さんの独創性が光る、よこはま・たそがれ

'14年9月17日(水)
[山口洋子] ブログ村キーワード

五木ひろしの歌う
「よこはま・たそがれ」は
新鮮で衝撃的であった。
作詞は最近亡くなった
山口洋子氏(作曲平尾昌晃氏)

単語の連続が聴く者の
連想を導き、情景を伝える。

よこはま たそがれ
ホテルの小部屋 くちづけ
残り香 煙草のけむり
ブルース 口笛 女の涙

(あの人は 行って 
 行ってしまった
 あの人は 行って 
 行ってしまった)
もう帰らない

裏町 スナック 
酔えないお酒 ゆきずり
嘘つき 気まぐれ男
あてない 恋唄 流しのギター

(括弧の繰り返し)
もうよその人

木枯し 想い出 
グレーのコート あきらめ
水色 つめたい夜明け
海鳴り 燈台 一羽のかもめ

(括弧の繰り返し)
もうおしまいね

山口洋子さんの訃報
「よこはま・たそがれ」
などで知られる作詞家で
直木賞作家の山口洋子さんが
6日午前1時6分、
呼吸不全のため東京都内の
病院で死去していたことが
15日、分かった。77歳だった。

「噂の女」、「うそ」、
「ブランデーグラス」―。
数多くのヒット曲を
手掛けた山口さんが、
静かに息を引き取っていた。

関係者によると、
山口さんは昨年1月に
誤嚥性肺炎で入院し、
その後も入退院を繰り返し
ていた。それでも
主治医と散歩するなど
安定した日々を送って
いたが、今月5日に
容体が急変。
近親者に見守られながら、
息を引き取ったという。

山口さんは
女優としてデビュー後、
60年代後半から作詞
始めた。
一方で、東京・銀座で
高級クラブ」を開業。

「信じられません・・・」と
ショックを
隠しきれない様子だったのは
五木ひろしだ。

65年に「松山まさる」で
デビューしたが、
ヒット曲に恵まれなかった。
ところが、
71年に山口さんと作曲家の
平尾昌晃氏
(76)のコンビ
による「よこはま―」で
再デビューすると、
同曲が大ヒット。
体言止めを多用した歌詞が
評判を呼んだ。
(サンケイスポーツ9/16 19面抜粋)

「よこはま・たそがれ」の
詩のなかで、
なぜ、恋歌ではなく
恋唄なのか。
なぜ、灯台ではなく、
燈台なのか。
作詞家山口さんの
こだわりが感じられる。

一番の結びは
もう帰らない」、
二番は「もうよその人」、
最後は「もうおしまいね」
と諦めへのステップを
登っていく
悲しい歌である。

井上靖、三島由紀夫、
石原慎太郎、
ウイリアム・フォークナー。
詩を研究した作家は
作品を読み始めれば、
出だしですぐにそれが
分かる。

直木賞作家山口さんの
作品もきっとそうであろう。

参考(歌唱履歴)
YouTube-五木ひろし 「よこはま・たそがれ」  
YouTube-五木ひろし 「よこはま・たそがれ」  
YouTube-五木ひろし 「よこはま・たそがれ」 

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2014年09月16日

もう一人の「李香蘭」が必要なとき、山口淑子さん逝く 

'14年9月16日(火)
[李香蘭] ブログ村キーワード

山口淑子さんの訃報

李香蘭の往年のヒット曲
「夜来香(イエライシャン)
「何日君再来
 (ホーリーチンツァイライ)」を
本人、つまり当時の山口淑子
参議院議員が熱唱するのを
同じ宴席で聞いたことがある。
このとき山口氏はすでに
70歳だったが、
優雅な北方風の中国語は
満州映画協会(満映)専属の
スター時代と変わらず、
流暢そのものだった。

山口氏が歩んだ
李香蘭としての前半生は、
エキゾチックな美貌と、
日中両国語の完璧な話者という
2つの条件を抜きに語れない。
だが、大陸生まれの
日本人少女を中国人と偽って
「五族協和」「日満親善」の
宣伝塔に押し上げたのは、
甘粕正彦理事長ら満映による
文化戦略
だった。

敵味方が…ひとつの歌に
 安らぎ求め


旧満州国の首都新京
(現吉林省長春市)に
建設された満映スタジオは、
「大陸文化の生産工場として
 東洋一の威容を誇る」
(1939年版「新京案内」)と
された。
映画は現在でいうソフトパワー
獲得のために最も重視される
存在だった。

李香蘭は、日満合作の
「白蘭の歌」(39年)を
はじめ、
「支那の夜」(40年)などの
国策映画で日本人ファンを
魅了する一方、
ラジオを通じて流れる
中国語の歌声
で、
抗戦下にあった重慶など
中国内陸でも中国人の心を
引きつけた


戦場の敵味方が、
ひとつの歌に安らぎを求めた
例としては、欧州戦線での
ララ・アンデルセンによる
「リリー・マルレーン」が
有名だ。
李香蘭は「偽りの国籍
という文化的な二面性を
抱えつつも、
戦時下の東アジアで
最も広く知られた
女優であり歌手だった。

2つの祖国に
 引き裂かれる苦しみ


山口氏は戦後の自伝で、
有名になるほど、
日中2つの祖国に
引き裂かれる苦しみを
吐露している。
事実、終戦とともに
中国で始まった「漢奸」
(対日協力者)摘発で
訴追され、波乱の末に
日本への引き揚げを
果たした。

歴史に翻弄された
往年の女優は去った。
その死去を報じた
中国メディアは、
李香蘭を
旧上海の7大女流歌手
と呼び、「夜来香」に
歌い継がれる名曲」の名を
与えた。
日中関係が低迷する中で
送られた賛辞の(数々)は、
時空を越えた李香蘭への
評価として記憶すべきだ
ろう。 (山本秀也)
(msn産経ニュース9/15 00:04)
(評伝 山口淑子さん
 歴史に翻弄された銀幕の麗人
 産経新聞9/15 2(総合)面)


補足記事

戦時中は歌手・女優の
李香蘭(り・こうらん)
として知られ、
戦後は日本で活動し
参院議員も務めた山口淑子
(本名・大鷹淑子)さんが
7日、心不全のため都内の
自宅で死去した。
94歳だった。
葬儀・告別式は親族で
行った。

大正9年、旧奉天
現・瀋陽郊外の北煙台
生まれ。両親は日本人
単身北京に留学して
 女学校を卒業した後、)
昭和13年に
満州映画協会の専属女優
 なって、)
中国人「李香蘭として
映画デビュー

歌手としても
「夜来香」などがヒットし
(人気を集め)た。
日本映画「支那の夜」
(「熱砂の誓い」)などにも
出演(している)。
上海で終戦を迎え、
売国奴の疑いで裁判に
かけられるが、
日本国籍であると証明
され帰国した。

戦後は
日本で山口淑子として
映画出演を中心に
芸能活動を再開し、
米国でも
「シャーリー・ヤマグチ」
として活動。
(彫刻家のイサム・ノグチ氏
 との結婚、離婚を経て、)
外交官の大鷹弘氏と(再)
結婚し(た。)、
33年(の「東京の休日」を
最後)に映画界から引退する。

(44年から)5年にわた
(り、)って
フジテレビ系のワイド
ショー「3時のあなた」で
司会を務め、
(取材でたびたび中東を
 訪れた。)
49年、(自民党から出馬して)
参院(選に当選し、)議員
になり3期18年
務め(て環境政務次官などを
歴任)た。
著書に「李香蘭 私の半生」
(藤原作弥氏との共著)など。
同書を題材に劇団四季が
上演した
「ミュージカル李香蘭」は
大好評を得た。平成5年、
勲二等宝冠章を受章した。
(産経新聞9/15 1面)
(msn産経ニュース9/14 12:20
 (括弧内生き))

 ※括弧内下線はどちらにも共通

産経新聞の電子版は
少し長めであったが、
新聞は
括弧内の表現をカットして
縮めていた。

参考に山口さんが歌った
夜来香などをYouTubeで
掲げたが
訃報に触れて
早くもコメントに
冥福を祈る旨の
お悔やみの言葉や
a great singer
という賛辞が
書き込まれていた。

参考
YouTube-夜来香_山口淑子(李香蘭)  
YouTube-何日君再來_山口淑子(李香蘭)  
YouTube- 荒城の月 山口淑子  
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | お悔やみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月06日

小保方晴子氏の指導役天才笹井芳樹氏は何を儚んだのか

'14年8月6日(水)
[STAP細胞] ブログ村キーワード

新型万能細胞とされた
STAP(スタップ)細胞の
論文共著者
の一人で、
理化学研究所発生・再生
科学総合研究センター

(CDB)の
笹井芳樹副センター長
(52)が5日午前、
神戸市中央区のCDBに
隣接する
先端医療センター内で
首をつっているのが
見つかり、死亡が確認
された
。笹井氏の秘書の
机の上から遺書のような
ものが見つかり、自殺と
みられる。

理研の同僚によると、
笹井氏はSTAP細胞の
論文問題後から心療内科を
受診
し、最近は
薬の副作用ではっきりと
会話することが難しかった

という。
菅義偉官房長官は5日の
記者会見で、笹井氏の
自殺について
「世界的にも大きな功績の
 あった方だ。このような
 事態に至ったことは
 非常に残念だ」と述べた。

笹井氏はSTAP細胞論文の
筆頭著者である小保方晴子氏
(30)の指導役にあたり、
論文の責任著者にも名を
連ねていた。今年1月末の
論文発表会見にも小保方氏
とともに出席。その後、
論文に疑義が示されたことを
受けて、論文の撤回に同意
していた。

理研の懲戒委員会は、
論文に不正があったとして
笹井氏と小保方氏らの処分を
検討
していた。
 
笹井氏は昭和61年に
京都大医学部を卒業し、
内科の研修医を経て
京大大学院へ進学。
神経伝達物質の研究で
知られる中西重忠教授
(当時)に師事し、博士号を
取得。平成10年には、
36歳の若さで
京大再生医科学研究所の
教授
に就任した。

2年後に理研発生・再生
科学総合研究センター

グループディレクターを
兼務。15年からセンター
専任となり、25年に
副センター長
に就任して
いた。

23年には
マウスの胚性幹細胞
(ES細胞)から立体的な
網膜を作製
。世界初の成果
として注目を集めるなど、
日本の再生医療研究で
先駆的な役割を果たしていた。
(msn産経ニュースWEST
 8/5 11:55)


経歴に汚点がついたこと
苦にしたのなら、
天才の脆さである。

小保方氏に導かれて
再生医療の表舞台に登場
した人物の印象を受けた
笹井氏だが、
再生医療分野で世界的な
成果を挙げられた方だった。
ご冥福をお祈りしたい。

参考
【産経新聞号外】理研・笹井氏自殺 STAP論文の責任著者(PDF) 
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | お悔やみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月20日

大相撲、今の盛況のもとを築いた元魁傑の元放駒親方逝く

'14年5月20日(火)
[大相撲] ブログ村キーワード

夏場所の盛り上がりよう
には目を見晴らされる。
週末はもちろん、6日目の
金曜日も東京場所前半の
平日としては平成9年
夏場所以来、17年ぶりに
満員御礼
も出た。
中高年に加え、若い人の
姿も
目立つ。
野球賭博や八百長問題で
壊滅的な打撃を受けた
大相撲がようやく立ち直り、
かつての盛況を取り戻した
がある。
(今村忠 辛口甘口 
 サンケイスポーツ5/19 
 22面抜粋)


(そんな中)
日本相撲協会の前理事長で、
元大関魁傑の西森輝門
(てるゆき)が18日、
死去
した。66歳だった。
死因は不明。西森氏は同日、
東京・西東京市のゴルフ
練習場で倒れ、救急車で
同・小平市の昭和病院に
搬送されたが、死亡が
確認された。
「クリーン魁傑」
と呼ばれた現役時代は
一度、大関から陥落し、
再び平幕から2度目の
大関昇進
を果たした。
また、理事長時代には
八百長問題で、
平成23年の春場所中止や
力士の処分を決断、
組織改革にも着手した。

五輪出場を目指すほどの
柔道の有力選手だった
西森氏は、
日大柔道部に籍を置いたが、
1年で中退。
当時の花籠部屋に入門し、
昭和41年秋場所で初土俵。
50年春場所に大関昇進を
果たしたが
同年の秋、
九州場所と2場所連続して
負け越して関脇へ転落
した。

51年初場所
「10勝以上を挙げれば
 大関復帰」という特例を
生かせず
、負け越し。
同年春場所では平幕に
落ちた。

だが、
同年秋場所で2度目の優勝
52年初場所後には
2度目の大関昇進
を決めた。
特例による
復帰ではなかったため、
再び伝達式を経験。
大関昇進口上を2度述べた
ただ一人の力士となった。

日大相撲部出身で
同じ花籠部屋に入った、
のちの横綱輪島とは
同学年。

誠実な土俵態度
「クリーン魁傑」と呼ばれ、
937回の出場で休場は
一度もなかった


引退後は
花籠部屋から独立し、
放駒部屋を興したが、
花籠親方となった輪島の
不祥事での退職により、
花籠部屋の力士30人を
受け入れた。
師匠としても内弟子
だった大乃国
(現芝田山親方)を
横綱まで育て上げた。

平成22年には
野球賭博問題の渦中に、
理事長
に就任。
23年に発覚した八百長
問題
では春場所の中止や、
力士の大量処分を決断。
また公益財団認定に向け
年寄名跡問題にも着手した。
現役時代同様の苦労続きを
理事長退任時には
「時間に追われた。
 長かったのか短かったの
 か分からない」
と振り返った。

昨年2月に定年を迎え、
放駒部屋を閉鎖。
所属力士は芝田山部屋へ
移籍。
解説なども断り、表舞台
から去った。
(同紙同面別記事抜粋)

色黒で「黒いダイヤ」
と言われたが、
人柄は柔和で女子高校生に
とってはお兄さんのような
優しさを感じたのだろう。
蔵前国技館に飛び交った
ゴーゴーカイケツ」の
黄色い声援は場違いで
忘れられない。

柔道出身だけに
腰高の欠点はあったが、
積極的に前に出る相撲で
大関まで上がった。
とにかく真面目で、
多少のけがでも
休場は試合放棄だ
と土俵を勤めたのは立派
だった。

晩年、理事長になったが、
相次ぐ不祥事の
事後処理での登板だった。
改革への思い切った手を
打とうとしたが、
猛反対にあい結局は
果たせぬまま終わり
悲運の人だった。
(特別編集委員今村忠 悼む 
 同紙同面別記事抜粋)


一身を燃やし尽くして
相撲界に尽くした人である。

ご冥福をお祈りする。


参考
 本場所
  初場所(1月・東京)
  春場所(3月・大阪)
  夏場所(5月・東京)
  名古屋場所(7月)
  秋場所(9月・東京)
  九州場所 (11月)
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | お悔やみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする