2019年08月23日

きみよ、自分の産声を聞いたか、と長谷川龍生さん

‘19年8月23日(金)

詩人の長谷川龍生さんが
40年ほど前に書いた作品に、
むしろ高齢化社会の進んだ
今のほうが世の人の心に
染みるだろうと思われる
作品がある。
『自分の産声をきく』から
一節を引く
◆定年退職する人などへの
呼びかけだろうか。
<いじけた大人の社会の
 数十年だった/疑いぶかく
 ふくざつな人間関係の沼
 だった>。
だがそのトンネルを抜けると、
すがすがしく自分の産声をきく
世界が見えると詩はつづく。
<きみよ、自分の産声を
 きいたか>と
◆中年を迎えて再デビュー
した詩人ならではの
問いかけだろう。
長谷川さんが91歳で亡く
なった。
人生は決して平坦では
なかった
◆大阪に生れ、文学者を
めざすも、病気や貧困から
進学をあきらめ、放浪の
旅に出たりしながら詩作を
つづけた。才能にまず
一目置いたのは大手の
広告会社だった。
スカウトされ、長くコピー
ライターとして活躍し、
ニッカウヰスキー
「髭おじさん」などを
手掛けた
◆詩作で数々の賞を受ける
のはその後のことで、
新人になった気でやり直した
という。
<自分の産声をきいたか>。
この希望に満ちた言葉は、
ご自身への励ましでもあった
だろう。
(編集手帳 讀賣新聞8/22)

参考
長谷川 龍生
(’28/6/19〜‘19/8/20)
日本ペンクラブ名誉会員。
元日本現代詩人会会長。
前大阪文学学校校長。
「歴程」同人。(Wikipedia)
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 🌁| Comment(0) | お悔やみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月19日

正しいことでも、言い過ぎるのはよくないという遺言

'19年6月19日(水)

薩摩焼の陶郷である苗代川
(なえしろがわ)は、
鹿児島市から車で西へ
40分ほどの丘陵地帯にある。
十四代沈寿官(ちん・じゅかん)
さんが、いつものように
仕事をしていると、
お手伝いさんが飛び込んで
きた
▼「庭に頭の毛が真っ白な
  変な人がいる」。
司馬遼太郎さんだった。
「焼酎でも飲みますか」
「飲みましょう」。
2人は日が暮れるまで
語り合った。
沈さんを主人公とする小説
『故郷忘じがたく候』が
雑誌に掲載されたのは、
それから2カ月後である
▼16世紀の末、
豊臣秀吉の命により
朝鮮に出兵した島津義弘は、
約80人の陶工を連れ帰った。
そのなかに、沈さんの
先祖である初代沈当吉の
姿もあった。
当吉たちが苗代川で
作り始めた焼きものは、
島津家の庇護のもと薩摩焼
と名付けられ評判を呼ぶ。
陶工たちは望郷の思いを
募らせながら、技を継承
してきた。その薩摩焼
370年の歴史が、小説に
よって広く知られるように
なった
▼小説のクライマックス
となるのは、沈さんが
昭和41年に初めて韓国を
訪れ、ソウル大学で
行った講演の模様である。
日本の36年間の植民地
支配についてこう語った。
「(日本の圧政は)
 その通りだが、それを
 言い過ぎることは、
 若い韓国にとって
 どうであろう。
 言うことはよくても
 言い過ぎるとなると、
 そのときの心情は
 後ろ向きである」
▼「あなた方が36年を
  いうなら、
  私は370年を
  いわなければならない」。
沈さんが話を結んだとき、
聴衆は拍手をしなかった。
代わりに韓国でヒットして
いた青春歌「黄色いシャツ」
の大合唱で、沈さんへの
賛意を示した。
♪いっしょに人生を
歩いていこうじゃないか―
▼日本初の韓国名誉総領事も
努めた沈さんが、92歳で
亡くなった。
日韓関係が最悪の時期を
迎えるなか、大事な懸け橋を
失った。
(産経抄 産経新聞6/18)

沈氏のソウル大学での
講演が昭和41年(1967年)で、
秀吉の朝鮮出兵は秀吉の死に
よって慶長3年(1598年)
に終結。したがって、
帰化した陶工の伝統工芸は
それまで369年守られた。

一方、太平洋戦争の終結は
1945年(昭和20年)で
日韓併合は1910年。
したがって、経過年数は35年。

どちらも期間であるので
最初の1年を加えれば、
370年と36年になる。

posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☀| Comment(0) | お悔やみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月12日

人生の信条はアラヨッ!でなければと田辺聖子さん

'19年6月12日(火)

いつも元気なその女性は
「芦村タヨリ」という。
35歳、独身、会社勤めの
デザイナー。
<年下男をコマすときは
 平気で十歳(とお)
 ぐらいサバをよむ>
◆彼女にはわずか4文字の
人生信条しかない。
アラヨッ。ヨイショはだめ、
腰が重い。人生いろいろ
ピンチが来ても、アラヨッの
掛け声で飛び越えていく――。
田辺聖子さんの
『夢のように日は過ぎて』
(新潮文庫)の主人公である
◆恋愛小説の名手、
田辺さんが91歳で亡く
なった。軽妙なタッチに
温かなまなざし。
次々につむがれる
「おせい」さんの世界に
どれほどの人が心を浸した
だろう
◆訃報に接し、数ある物語
から先の女性を思い出した
のは、田辺さん自身の信条に
触れたことによる。
かつて編集者に語ったという。
「私がデビューした頃は、
 ご主人や息子さん、
 お兄さん、弟さん。家族を
 戦争で亡くした女性が
 たくさんいらした。
 私はそういう女性たちが
 元気になる小説を書きたい」
◆ご自身は終戦の年、
早くに父を失った。
悲しいことを避けられない
のが人生の一面とすれば、
それは百も承知の
アラヨッに違いない。
つぶやくと、おせいさん
から元気がもらえる。
(編集手帳 讀賣新聞6/11)

参考
田辺 聖子
(1928/3/27〜2019/6/6)
大阪府大阪市生まれ。
淀之水高等女学校を経て
樟蔭女子専門学校
(現大阪樟蔭女子大学)
国文科卒。
恋愛小説などを中心に
活動し、第50回
芥川龍之介賞(1964年)など
数多くの文学賞を授与
されている。
文化勲章受章者。
(Wikipedia)
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | お悔やみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月18日

直木賞を惚れた女に例えた作家の阿部牧カさん逝く

'19年5月18日(土)

昭和49年の夏、阿部牧郎
さんは直木賞に落選した。
6年前に初めて候補に
あがって以来、7度目である。
「惚れた女に男がいた。
 あきらめる以外にない」。
そんな心境だった
(『大阪迷走記』)
▼しばらくして、サンケイ
スポーツで連載が始まった。
総合商社を舞台にした
官能小説『金曜日の寝室』
である。
「オモロイでんなあ」。
阿部さんは、街に出ると、
見知らぬ人から次々に
声をかけられる。
小説家になって初めての
経験だった
▼“色物”に手を染めると、
直木賞から遠ざかるのでは
ないか。阿部さんには
葛藤があった。結局、
読者の要望に応じようと
決めた。
殺到する注文を引き受けて
書きまくっているうちに、
10年近くがすぎた
▼やがて体に異変が表れた。
病院のベッドで、久しぶりに
たくさんの小説を読んだ。
昔とは違う感銘を受けて、
あらためて創作の意欲が
わいてきた。読書に疲れて
天井を眺めていると、
中学、高校時代の友人の
顔が、数十年ぶりに浮かん
できた
▼主人公の小説家、
矢部宏が故郷のO市に
戻ってくる場面で始まる。
自殺した高校時代の親友の
葬儀に参列するためだった。
阿部さんは、退院後すぐ
取り組んだ自伝的長編小説
『それぞれの終楽章』で、
ようやく直木賞を射止めた。
54歳になっていた
▼受賞後も「官能」は、
重要なテーマだった。
先の大戦を背景にした
外交官や軍人の伝記小説
にも取り組んだ。
草野球チームを率い、
オーボエをたしなむ音楽通
でもある。
85年の生涯を猛烈な勢いで
走り抜けた。
阿部さんのエネルギーの
源は何だったのか。
私設の保育園を経営する
など、がむしゃらに
働いて6人の子を育て
あげた。そんな母親に、
「ガンバリ主義を
 たたきこまれた」
と語っていた。
(産経抄 産経新聞5/17)
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☀| Comment(0) | お悔やみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月17日

目で口ほどの演技をした国際的女優京マチ子さん逝く   

'19年5月17日(金)

〇河北新報コラム
映画評論家の
故淀川長治さんが映画の
名作10本を選んだ時、
邦画が1本だけ含まれて
いた。それが
黒沢明監督の『羅生門』。
「ワンカット、ワン
 カットが全部きれいで
 世界中が驚いた」。
印象に残った場面として
泣き伏した京マチ子さんの
黒髪の美しさを挙げた
▼京さんが演じたのが
盗賊に襲われる侍の妻
だった。
気性の激しい女、か弱い女、
身勝手な女、狂気じみた女…。
京さんは「一人四役」
ともいえる難しい役をこな
した。後に
「生まれ変わって
 もう一度やりたい役
 といえば
 これです」と語った
(筒井清忠編著
 『銀幕の昭和「スタア」が
  いた時代』)
▼『羅生門』などの出演作が
国際映画祭で最高賞を受賞し、
グランプリ女優と呼ばれた
京さんの訃報が届いた。
大胆な演技で肉体派女優
として注目され、戦後を
象徴する存在だった
▼巨匠との仕事が多かった。
魅力は何だったのか。
黒沢監督は能の古面のような
顔を挙げた。確かに
エキゾチックで幽玄な
雰囲気は海外の人の心を
とらえたことだろう。ただ、
それにとどまらなかった。
文芸作品や人情劇など
多彩な作品に出演し、
演技派としても活躍した
▼「不器用な人間です」が
口癖だった。誠実な人柄も
愛された。95年の生涯を
閉じたが、銀幕の中での
京さんはあの時のまま。
不滅の輝きを放っている。
(河北春秋 河北新報ONLINE NEWS5/16

〇読売新聞コラム
映画界の巨匠、黒沢明監督は
演技にきびしい人だった。
意見が合わず主演俳優が
途中降板した大作もある。
ところが京マチ子さんの
前では温和な表情を見せて
いた
◆「京ちゃん、どう?」。
『羅生門』の撮影がはじ
まったころ、髪結いの
部屋に入ってきた。
そのとき京さんは
眉を剃り落としたばかり。
時代劇に自分の眉は
濃すぎて向かないと思い、
一存で顔を変えたという
◆「先生はこれは面白いと
 言ってくれて、自由に
 演技させてもらいました」。
かつて本紙に語っている。
黒沢監督でさえも、
大女優の道を歩む
「京ちゃん」の凄みに
早く気づいた映画人の一人
なのだろう
◆ベネチア国際映画祭で
金獅子賞を取った
『羅生門』をはじめ、
数々の名作に出演した
京さんが96歳で
亡くなった。
デビューしてまもなく、
「彼女に一点光のごとく
 精彩を与えているのは
 その目だ」と言った
評論家がいる。
日本映画の黄金期から
数十年が過ぎた今なお、
モノクロのスクリーンから
あたかも光源であるかの
ように輝く目を
脳裏に刻む方は多いこと
だろう
◆そのまぶたは永遠に
閉じられた。
遺骨はハワイのお墓に
葬られるという。
(編集手帳 讀賣新聞5/16)
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | お悔やみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする