2020年09月17日

ジェットコースターのような人生を歩んだ岸部四郎さん逝く

‘20年9月17日(木) 

グループサウンズ
「ザ・タイガース」の
メンバーで、テレビ司会者や
俳優としても親しまれた
タレントの岸部四郎さんが
8月28日午前4時33分、
拡張型心筋症による
急性心不全のため、千葉県内の
病院で死去したことが15日、
分かった。71歳だった。
葬儀は近親者で執り行われた。
2003年に脳内出血で倒れ、
その後は視野狭窄
パーキンソン病を患い、闘病を
続けながら復帰を目指していた。

まるでジェットコースターの
ように岸部四郎さんが
芸能生活を駆け抜けた。
19歳でザ・タイガースに加入し、
人気を集めると、解散後は
司会俳優として幅広く活躍。
84年からは日本テレビ系
「ルックルックこんにちは」の
司会を務め、丸めがねに
ひょうひょうとした語り口で
お茶の間の人気を集めた。

抜群の知名度を武器に
元祖マルチタレントとも言える
活躍をする一方で、
ロサンゼルスでディスコ
経営、ヘリコプターで旅客を
運ぶ会社
を設立し役員を務める
など、手広く事業を展開。
年収は1億円超と言われた。
が、浪費癖もあり、借金を抱え、
自己破産
「ルックルック―」も降板し、
離婚を経験するなど絶頂期から
どん底期を味わった。

それでも再起をかけ、
テレビ番組で丸刈りになる姿を
放送するなど、私生活の苦境を
逆手に取ったパフォーマンスで
芸能界で生き残った。
バラエティー番組では
「オレを誰や思うてんねん。
 元金持ちやぞ!」と借金騒動を
ネタに。
銀行のキャッシュローンのCMで
「お金は借りないのが一番!。
 借りるなら賢く借りる!
 ま、私が言うても
 説得力ゼロですが…」と
自虐ネタを披露。

2003年には脳内出血で
倒れたが、たびたび、
テレビ番組に出演し、
金欠の近況を語るなど、
苦しむ闘病生活までもさらけ
出した。

最後の公の場は、13年の
ザ・タイガースの東京ドームでの
ライブに車いすで登場。
浮き沈みの激しい波乱万丈の
人生を、最後までひょうひょうと
生き抜いた。
(スポーツ報知 9/16 06:00)
ラベル:岸部四郎
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | お悔やみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月31日

志村けんさん逝く、新型コロナはまだ大丈夫じゃない

‘20年3月31日(火)

ザ・ドリフターズのメンバーで
タレントの志村けんさんが
コロナウイルスによる肺炎のため
亡くなったことが30日、分かった。
29日午後11時10分、都内の病院で
死去した。70歳。死因は
新型コロナウイルスによる肺炎。
葬儀は親族のみで行う。
今後親族と相談しながら
お別れの会をとりおこなうか
検討する。
志村さんは3月23日に
新型コロナウイルス検査で
陽性と判明、都内の病院に入院
していた。所属事務所の
イザワオフィスは同25日に
報道各社に文書で発表していた。
関係者によると、志村さんは
今年1月に定期健診で胃のポリープが
発見され摘出手術のために
6日ほど入院していた。一方で、
「基本的に通院するような持病も
 なく体調は良かった」という。
志村さんは1974年、
ザ・ドリフターズに荒井注さんの
脱退を機に加入。
TBS系「8時だョ!全員集合」の
「少年少女合唱隊」のコーナーで
地元の「東村山音頭」を歌った
ことでブレーク。
加藤茶(77)とのコンビの
「ヒゲダンス」、
「カラスの勝手でしょ」、
「志村、後ろ!」が大流行し、
社会現象にもなった。
さらに、「バカ殿様」は
86年からフジテレビ系で
特番化され現在まで続く
名物番組となった。
85年に「全員集合」が終了後、
加藤と
「加トちゃんケンちゃん
 ごきげんテレビ」、
87年からはフジテレビ系
「志村けんのだいじょうぶだぁ」が
スタートするなど、日本のお笑い界の
代表的な存在となった。
私生活では独身を貫く一方で、
プレイボーイとして、たびたび
週刊誌などを賑わせた。

◆志村けん(しむら・けん)
本名・志村康徳 
1950年(昭25)2月20日、
東京・東村山市生まれ。
ザ・ドリフターズの付き人を
経て、74年、正式メンバーに。
TBS系「8時だヨ!全員集合」で
「東村山音頭」のギャグで
ブレーク。
加藤茶との「ひげダンス」、
「カラスの勝手でしょ」
「アイーン」など次々に
ギャグを生む。
主なキャラクターは
「バカ殿様」
「変なおじさん」
「ひとみばあさん」など。
166センチ、血液型A。
◆ザ・ドリフターズ 
64年にいかりや長介さん
(04年死去)をリーダーに
したコミックバンドとして
誕生。
他のメンバーは加藤茶、
荒井注さん(00年死去)、
高木ブー、仲本工事。
66年にザ・ビートルズの
日本武道館公演の前座を
務めた。
74年に荒井さんが抜けて
志村けんが加入。
69年にTBS系
「8時だヨ!全員集合」が
放送開始。77年に
フジテレビ系
「ドリフの大爆笑」が
スタートし、
コントグループとしても
国民的人気となった。70年に
「ドリフのズンドコ節」が
ミリオンヒット。
ほかに「いい湯だな」
「ミヨちゃん」
「誰かさんと誰かさん」
などの代表曲がある。
(日刊スポーツ3/30 10:;12)
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | お悔やみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月24日

夢はみるが涙は見せない女性、宮城まり子さん逝く

‘20年3月24日(火)

○読売新聞
宮城まり子さんが芝居に歌に
大活躍していた頃、その陽気で
楽天的な素顔を、
東京の「下町っ子」と評した
評論家がいたという
◆宮城さんを娘役に脚本を
書いたことのある花登筐(はなとこばこ)
大阪人として、ジェラシーを
覚えたらしい。
次の<まりちゃん>評を残している。
<私は、彼女を見ると大阪の芸人の
 とうはん(お嬢さんの意)を
 連想する。外見はハデでも、
 きびしい家計のやりくりをして、
 男まさりで、そのくせ情に弱く、
 夢はみるが涙は見せない・・・>
◆そんな<とうはん>は
この文章の2年後、新たな道に
踏み出す。肢体不自由児の
養護施設「ねむの木学園」の
設立である
◆「この世にだめな子なんて
  一人もいない」。
私財をなげうち、華やかな生活を
捨てて福祉に人生をささげた
宮城さんが93歳で亡くなった。
「小さな体で身を粉にして
 子供たちのためだけに働き、
 本当の『お母さん』のよう
 だった」と、親交のあった
大宅映子さんは語る
◆この後半生は、彼女こそ
人情劇にふさわしいと讃えた
花登氏の想像をはるかに超えた
ものだろう。
学園のなかでまりちゃんが
見せていた情と夢は、演技では
ないのである。
(編集手帳 讀賣新聞3/24)

○産経新聞
男女間の性の深淵を描き続けた
作家、吉行淳之介さんの全集
(新潮社)の最終巻に、
人生のパートナーだった女優の
宮城まり子さんに送った13通の
手紙が収録されている。
書かれたのは、昭和34年11月から
翌年1月にかけて。
宮城さんは妻子のある吉行さんとの
恋愛に終止符を打つために、
ニューヨークに滞在していた
▼「君のことは、大好きです」。
ストレートな愛の言葉もあれば、
こんな変化球も。
「小生誘惑が多く、毎日神さまに
 お祈りして、日を送っている」。
宮城さんに焼きもちをやかせて、
帰国をうながそうとしている
▼宮城さんが肢体不自由児養護施設
「ねむの木学園」を創立する
きっかけとなったのは、
ミュージカルで脳性マヒの少女を
演じたことだった。
役づくりのために取材に通った
病院の医師から、「就学猶予」という
言葉を教えられる
▼重い障害のために教育が
受けられない子供の存在を知って、
大きなショックを受けた。
女優のかたわら福祉の勉強を続けた。
施設の創設を吉行さんに相談すると、
「3つの約束が守れるなら」と
OKが出た。
「愚痴はこぼさない、お金がないと
 言わない、途中でやめない」
▼静岡県掛川市にある学園が
今年創立52年を迎える。
大人のための養護施設や美術館、
吉行さんの文学館もつくった。
宮城さんは吉行さんとの約束を
守り切り、93年の生涯を終えた
▼「今年は何か賞がほしかった。
  鳥獣虫魚で貰いたかった」。
手紙の中で宮城さんが、
特に気に入っている記述である。
2人の恋愛が描かれて作品だからだ。
宮城さんは平成6年に亡くなった
吉行さんから作品の著作権を
受け継いでいる。
自ら編集した吉行さんの短編集に、
「鳥獣虫魚」が含まれている
ことは、いうまでもない。
(産経抄 産経新聞3/24)

作家・吉行淳之介を愛し、二人の
子供たちとして、「ねむの木学園」で
その世話をしたかったのでは
ないか。

7年前、東京都内のコンサートで
歌った「愛の賛歌」では
長年のパートナーだった作家・
吉行淳之介さんへの思いを込め
「淳ちゃーん」と叫んだ。
(要旨 讀賣新聞3/24 31(社会)面)
posted by (雑)学者 at 17:19| 千葉 ☀| Comment(0) | お悔やみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月13日

人に歴史あり、選手でも監督でも成功した野村さん逝く

‘20年2月13日(木)

○河北新報
野村克也さんは3歳の時に
父親を戦争で亡くした。
病弱な母親に育てられ、
極貧生活を送る。
夜なべをして働く母を見て
「金持ちになって
 母を楽にしたいと思い、
 プロ野球選手を志した」と
自著『人生を勝利に導く金言』
(致知出版社)につづった
▼努力が開花し球界を代表する
強打の名捕手になった。
母の死の2年後に南海から
監督就任の要請を受ける。
「監督はやっちゃいかん。
 人様に迷惑を掛ける」
というのが母の遺言だったが、
成功して死んだ母を喜ばせ
たいと思い、引き受けた
▼名監督としても活躍した
野村さんが84歳で亡くなった。
苦労を重ねた人生が縁を
引き寄せたのか。
南海、ヤクルト、阪神と
低迷するチームを率いた
▼2005年、球団創設
1年目の東北楽天が0−26で
大敗した試合を見て
妻の故沙知代さんに予言した
という。
「俺に監督要請が来る」。
翌年から4年間指揮を執り、
断トツの最下位だった
チームをAクラス入りする
までに育てチームの礎を築いた
▼09年に日本ハムに敗れた
クライマックスシリーズが
公式戦最後のユニホーム姿
だった。退任が決まり、
両チームの選手に胴上げ
された。敵地なのに
「野村コール」が起きた。
自身を月見草に例えた野村さん。
グラウンドに大輪の花を
咲かせた在りし日の姿が
まぶたに浮かぶ。
(河北春秋 河北新報ONLINE NEWS2/12)

○日本経済新聞
去年の7月11日。
仕事を早々に切り上げ、
雨がそぼ降る東京・神宮球場に
タクシーを飛ばした。
プロ野球のヤクルト球団設立
50周年を記念したOB戦を
見逃すわけにはいかない。
この負け癖がついたチームにも、
黄金の1990年代があった。
名監督ノムさんの手腕だ
▼約2万8000人の観衆が
最も沸いたのは、四回裏。
「代打・野村克也」が告げられた。
バットをつえにして、ベンチから
おぼつかない足取りで打席に向かう。
その腕を、まな弟子の
古田敦也さんが支えた。
初球は見送る。2球目は空振り。
通算657本塁打の84歳の
レジェンドに怖じ気づいたのか。
相手は申告敬遠した
▼この寸劇に大いに笑った。
同時にしんみりした。
ユニホームを着た最後の雄姿に
なるのか。目に焼き付けよう。
多くのファンがそう感じていた
はずだ。ノムさんの訃報に接し、
歓声を浴びながらベンチに退く
後ろ姿がよみがえった。
卓越した理論を時にボヤキに
変換し、南海、ヤクルト、阪神、
楽天を率いた名伯楽だった
▼一方、歴代最多の1563の
負けを喫した。
「勝ちに不思議の勝ちあり。
 負けに不思議の負けなし」の
金言は失敗に学ぶ哲学だ。
「野村再生工場」で、
戦力外通告された選手を復活
させた。人事の妙は企業経営にも
通じるのだろう。
「日経ビジネス」2月10日号の
取材で人材育成について語って
いる。球界は至宝を失った。
(春秋 日本経済新聞2/12)

○毎日新聞
ノムさんこと野村克也さんは
少年時代、夕暮れの浜辺に咲く
かれんな花に心引かれた。
「なぜ昼に咲かないのか」。
それを思い出したのは数十年後、
通算600本塁打を前に、
達成時の談話を考えていた時
だった

「王や長嶋が太陽を浴びて
 咲く『ひまわり』とすれば、
 こっちは人目にふれない
 ところで咲く『月見草』や」。
記録達成の日の観客は7000人、
同日の巨人戦は5万人近い入りだった。
歴史的談話は熟考し、準備された
ものだった

「人や集団を動かすものは  
 言葉しかない。
 ほかに何があるんですか」が
口癖だったノムさんは、
練達の言葉の使い手だった。
捕手時代の「ささやき」戦術、
監督として掲げた「ID野球」、
芸の域に達した「ぼやき」も
そうであろう
▲だから名言は多い。
「野球は気力1分、体力1分、
 残り8分は頭なんや」
「配球も人生も大事なのは『緩急』」
「グチは『不満』を表すもの、
 ボヤキは『理想と現実の差』を
 表現する」
「アマは『自分が喜ぶ』。
 プロは『人が喜ぶ』」
▲打者としての最多打席数や
歴代2位の本塁打、安打、打点、
さらに平成最多勝利監督などの
栄誉は今さらたたえるまでもない。
ただ精神論が幅をきかせてきた
日本の野球に「考える野球」の
文化を吹き込んだ功績は忘れては
なるまい
▲名言
「勝ちに不思議の勝ちあり、
 負けに不思議の負けなし」は
剣術書からの引用だという。
「ささやき」の昭和から
「ぼやき」の平成へ、大記録と
令和の野球文化を次世代に
残し、ノムさんが旅立った。
(余録 毎日新聞2/12)
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | お悔やみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月05日

何かが間違っている、中村哲さんがアフガニスタンで

‘19年12月5日(木)

劇作家の井上ひさしさんは
政治や社会のあれこれを
論評するとき、かなりの辛口
だった。その人が医師の
中村哲さん(73)率いる
NGO「ペシャワール会」に
賛辞を惜しまなかったのを
思い出す
◆会は事務局を中村さんの
故郷である福岡市に置き、
30年以上にわたりパキスタンと
アフガニスタンで活動して
きた。診療所を建てたり、
干ばつで飢餓が発生した地域に
井戸や水路を造ったり・・・
◆井上さんは会計報告を見て
驚いた。経費を極限まで抑え
寄付の96.6%を現地で使って
いたからだ。
こんな偉い人がいたのかと
随筆に書いた。
<それも私たちの国、
 日本にですよ>
◆一報を聞いてまさかと
思った。アフガン東部の州で、
中村さんの乗る車が銃撃に遭い、
胸部を撃たれ亡くなった。
若き日に福岡の山岳会に同行
して現地を訪ね、貧しい医療に
触れたことが国を飛び出す
きっかけになった。
苦しむ人々に優しいまなざしを
向けただけではない。
立ち上がり、心を砕き、汗を
かいた人の澄みきった人生が
凶弾に断たれた
◆アフガン東部といえば、
砂漠の灌漑に成功し、緑地に
65万人が生活をきずく場所だ
という。なぜだ。
(編集手帳 讀賣新聞12/5)
posted by (雑)学者 at 15:24| 千葉 ☀| Comment(0) | お悔やみ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする