2014年08月14日

日本でも子どもたちに本を読ませないと手遅れに

'14年8月14日(木)
[いじめ] ブログ村キーワード

8月11日、韓国・
聯合ニュースによると、
韓国の朴槿恵大統領
韓国軍内で兵士への
いじめや暴行事件が
相次いでいることについて、
軍内で読書などの
文化活動を行うべきだとの
考えを
示した。
人民網が伝えた。
朴大統領は
「法律だけでは軍内暴力を
 根絶することはできない。
 読書の習慣を身に付ける
 ことで軍の文化を
 改善できるだけでなく、
 心に問題を抱える兵士が
 自ら変わるきっかけを
 与えられる」とした。
また、
「兵士に他人を尊重する
 ことを学ばせてこそ、
 軍を変えられる。
 韓国国防部は
 文化体育観光部と
 連携を強化し、兵士に
 良好な読書環境を
 提供すべき。
 軍隊の指揮官も積極的に
 協力することが必要」
と強調した。(翻訳・編集/TK)
(msnトピックス8/13
 06:30 (Record China))


大人になってからでは、
遅過ぎはしないだろうか。

大人になりきれない人を
つくっては韓国と同じ。

子どもの心の発達に
合わせて済ませるべき
ことのように思うのだが。

産経新聞出版から
『国民の修身』
 (監修・渡部昇一)
という本が出ている。

この本こそ音読が相応
しい。

どの逸話がいじめ根絶に
役立つかの決めてはないが、
全体が微妙に関係して
いる。

渡部昇一氏の序文の
結びに次のような記述が
あった。

もう何十年も前の話に
なるが、小学校の校長先生
たちの集まりで講演する
機会があった。
その後の茶話会で、ある
校長先生がこう言われた。
非行少年が出た場合
 その親が教育勅語や
 修身を教えられた
 世代の場合は指導に
 成果が上がりました。
 しかし親が教育勅語も
 知らず
修身も
 教えられていない世代に
 なると手の施しようが
 ありません
」と。

今日には今日にふさわしい
道徳教育が行われるべきで
あるが、教育勅語の徳目
時代や場所を越えて
普遍・不変の価値がある
し、
そこに示された徳目を
目指して修身に心がける
ことは、普遍・不変の
価値があると思う。
(上智大学名誉教授渡部昇一
 国民の修身序文抜粋)

posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | いじめ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月21日

他人の命より大切なものがあると誰が教えたか

'13年7月21日(日)
[いじめ] ブログ村キーワード

いじめや犯罪は
自分の方が他人より大切だ
という割り切りがなければ
できない。

そういう心はどうやって
育つのだろうか。
家庭や学校で教えないと
分からないはずだが・・・・・。

日が経ったが18日の
産経新聞のコラムが
このことに無垢の赤ちゃんを
取り上げていた。


生後10カ月の赤ちゃん
にも、他人を思いやる心が
ある。
京都大学の研究チームが
実験で確かめたという。
まず赤ちゃんのグループに、
ある図形が別の図形を攻撃
するアニメを見せる


▼その後、ふたつの図形の
おもちゃのどちらに手を
伸ばすのか観察するのだ。
するとほとんどの赤ちゃんが、
攻撃された側のおもちゃに
手を伸ばした

ふたつの図形が接触しない
映像を見せられた赤ちゃんの
グループには
偏りがない

▼「弱者へのいたわりの
 気持ちがあるとしか
 考えられない
」と研究者は
いう。
子供たちは本来、
家庭と学校でいたわりの
気持ちをさらに大きく育てて
いくはず
だ。その学校で、
陰湿ないじめが後を絶たない
のはどうしたことだろう。

▼今月10日、名古屋市の
市立中学2年の男子生徒
(13)が、マンションから
飛び降りて命を絶った。
全校生徒にアンケートを実施
したところ、
「死ね」と言われていた、と
21人が答えている。

▼暴力を受けていた、との
回答もあった。
4月には、神奈川県湯河原町の
町立中学2年の男子生徒が
自殺している。
町はいじめが動機につながった、
との調査結果を公表した。
2年前に大津市で起きた
中学2年の男子生徒の
いじめ自殺の教訓が、
教育現場でまったく生か
されていない。

▼「死をもって抗議する
 ということは、
 その善し悪しは別にして、
 人間にだけ可能な行為
 である」。
哲学者の故池田晶子さんが、
「いじめの憂鬱」と題した
エッセーで言っていた。
ただ戦後教育のもとでは、
抗議の自殺は成立しない。
人間には命より大切なもの
がある、との考えを否定した
からだ。
生きたが勝ちというなら
やがて殺したが勝ち
社会になる

池田さんの予言を裏付ける
ような、凄惨な事件も
起こっている。
(産経抄 産経新聞7/18)

学校では、自分や自己主張の
大切さは教えるが、
他人も含めた命の大切さは
教えていないようだ。

裏返してみれば、
誰もがそう考えるのだから、
自分の生命財産が他人の
生命財産よりも貴い
という答えは出て来ない
はずだが・・・・・。


三軒茶屋事件

2001年4月、電車の中で、
銀行員に注意された少年
たちが三軒茶屋駅
(東京急行田園都市線)で、
この銀行員を撲殺すると
いう事件が起きた。

判決で量刑を言い渡された
少年たちが
謝罪したにもかかわらず
許されていないとして反発
したと聞く。


自動車保険に加入すると
気のゆるみから
事故が起きやすくなる
という。

これをモラル・ハザード
というらしい。

保険会社が事後処理をする
ことから加害者が直接謝罪
することはしないという
“道徳的危機”に陥り、
その風潮が社会生活全般に
広がってしまってはいない
だろうか。

謝罪したことのない人が
謝罪すると自尊心が大いに
傷つくだろう。

しかし、人を殺しても
謝れば済むと考えること
自体、
教育としつけと社会が
狂っていると言わざるを
得ない。

三軒茶屋事件の判決は続く。
裁判長は少年たちに訪ねた。
さだまさしの「償い」という
曲を知っているかと・・・。

参考
YouTube-償い/さだまさし【歌詞入り】
過去のブログ
裁判長は知っていた まっさんの「つぐない」

posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | いじめ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月11日

いじめはいじめられる方も鍛えなければ問題を残す

'13年2月11日(月)
[いじめ] ブログ村キーワード

タイトルは曽野綾子氏の
意見である。
逆説的であるが、
制度改革の項目にこれを
付け加えるべきであると
思う。
曽野氏の主張は概略、
次のとおりであろう。


日本の教育が抱える
最も大きな問題は、
教育制度を変えれば、
いじめをなくすことが
できると考えている点
にある。制度改革、つまり
政治の力で、いじめを
なくすことは決して
できない。

理由は二つある。
ひとつは、およそ人間社会
において、いじめのない
世界はない
ということで
ある。
子どもであろうと
大人であろうと、
いくつになっても、
どんな組織でもいじめは
いろいろな形で存在する
のである。

そしてもうひとつの理由は、
いじめは「楽しい」もの
でもあるということだ。
もちろん、いじめられる
側にとっては
たまらなく辛いことだろう。
しかし、いじめる側の
精神が幼いと、楽しい、
面白いと思う。

私たち人間の心の中には、
いじめを「楽しむ」という
悪い心根が確かにあるのだ。
それを認めて論議しないと
だめた。

このように、人間の本質と
繋がっているいじめを、
人為的に設けた制度によって
なくすことができる、
あるいは減らすことが
できると考えるのは
間違っている。
制度の見直しだけでは、
いじめ問題の根本的な解決
にはとうてい至らない
という認識を持つべきだ。

いじめをなくすことが
できないならば、
いじめに耐えて
生きてゆける強い子ども
たちをどう育てていくか

これこそが大切なのだが、
そのことは教育関係者も
政治家も、誰ひとり言及
しない。

日本の教育の罪は
「たとえ子どもであろうと、
 悪い心を持たない人は
 ひとりとしていない

という事実から目を背けて
きたこと
だ。

よく「クリスチャンは
悪いことをしないので
しょう」とおっしゃる方が
いるが、とんでもない。

キリスト教は性悪説の宗教
である。
聖書に何が書かれているか
というと、
「悪い人間がどんな
 運命を辿ったか」
という話だ。

人間の本性に悪がある
ことを認めたうえで、
たとえどんな悪人でも、
その人が世の中のために
働くことができる手立てを
考える
のだ。

小学校5〜6年生を
過ぎると、
自己というものがかなり
形成されてくる。

教育の責任は親にあるのか、
教師にあるのかという
ことがよく議論されるが、
そのくらいの年頃になれば、
教育の責任の半分は
まず本人にある

残りの半分のうちさらに
半分、つまり4分の1は
親の責任

そして、残った4分の1が
教師と社会の責任
だ。
教師や社会の責任は
せいぜい全体の8分の1に
すぎない。

半分が本人の責任である
とする理由は、
たとえどんなに愚かな教師に
教わり、どんな愚かな社会に
身をおいていても、
個人の意志で抵抗することは
できるからだ。

人間はみな平等ではないし、
悪い心も持ち合わせている。
子どもも大人も、
このことをよく理解する。

神は人間ひとりひとりに
 ボケーション
(使命)
 与えている
」のである。
それを個人個人が
見出せるようにすることが、
教育の本当の役割
ではない
のか。
(作家曽野綾子
 「この人生、この世界、
  きれい事では済まない」
 週刊現代2/16・23編集、
 である体に変更)

posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | いじめ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月23日

いじめは、放置すればどこまでもエスカレートする

'12年7月23日(月)
[いじめ] ブログ村キーワード

天声とは、天がその意志を
人に伝える声(広辞苑)。
朝日新聞のコラムが
「天声人語」であるが、

最新のニュース、話題を
題材にして論説委員が
執筆し、社説とは異なる
角度から分析を加えている。
「天に声あり、人をして
 語らしむ」という中国の
古典に由来するとか、
ラテン語の
“Vox populi vox dei.”が
元になっているという説も
ある。(その)直訳は、
『民衆の声は神の声である』。
(Wikipedia)

産経新聞のコラムに書かれた
昨今の「いじめ」についての
主張は我が意に沿うもので
ある。


[いじめ問題]
今では信じられない話かも
しれないが、
昭和40年代初めごろまで
大学はまるで「治外法権」の
ような扱いを受けていた。
暴力事件や窃盗などの犯罪が
あっても警察は簡単には立ち
入れない。
学問の自由を守るための
「大学の自治」が勝手に
拡大解釈されていたためで
ある。

▼その結果、主な大学で
過激派の「内ゲバ」などの
暴力が日常茶飯事的に起きた。
全共闘運動で、
学生が校舎を封鎖する。
恩師の教授らをつるし上げ、
研究室を荒らす。
学問の自由を守るどころか、
学問の荒廃を招いたような
時代があった。

▼そんな雰囲気の大学を
出た後、教職の道を選んだ
人も多い。
中には、今でも学校が
治外法権であるかのような
幻想を抱いている先生

いる気がしてならない。
国歌斉唱時に、
起立するのを拒否したり、
平気で違法行為を犯したり
する教師があまりに多い
のだ。

▼大津市でいじめを受けた
中学2年生が
飛び降り自殺した問題で、
滋賀県警が父親の告訴を
受け、ようやく本格的に
動き出した。事件から
9カ月もたっている。
ここにも、教育現場に
警察を介入させたくない

という、
学校や教育委員会の誤った
意識が見えてくるようだ。

▼生徒へのアンケートに
よれば自殺した生徒は
殴る蹴るのほか、
ハチの死骸を食べさせられ
そうになり、自殺の練習を
強要された。
いじめというよりリンチ
である。
れっきとした「犯罪」だ。
教師たちで止められないの
なら、警察に訴えるしか
なかったはずだ。

▼学校がやるべきは、
いじめは犯罪であることを
生徒にはっきりと教える
ことだ。
場合によっては逮捕され、
裁判にかけられ、
犯罪者としての重荷を
背負うことになる。
そんな社会の厳しさを
たたき込むことなのである。
(産経抄 産経新聞7/22)

教育の現場は、
世俗に縁がないので、
教師のみならず、
生徒もPTAも学校には
警察はこない、という
認識に違いない。

そこで起こった
”犯罪”は
加害者の方が
数が多いことによって
隠ぺいされる。

参考
 天声人語
  英訳が、朝日新聞の
  姉妹紙、The Asahi
  Evening News に訳載
  されるようになったのは、
  1957年5月末からである。
  その題名については、
  当時、米軍機関紙などが
  転載して使っていた標題
  Voice of Heaven…という
  話であったが、あまりに
  神がかりじみて
  宗教くさい響きもあるので、
  私の希望で
  Vox Populi, Vox Dei として
  もらった。
  ラテン語であるが、英語の
  辞書にもあり、なかば
  英語化している言葉である。
  元来、天声人語とは、
  中国の古典に
  「天に声あり、人をして
   語らしむ」とあるのから
  採ったもので、
  「民の声」Vox Populi に
  主眼があり、それが
  民主主義の時代にも
  ふさわしいと思ったから
  である。
  (朝日新聞論説委員室編
   英和対訳天声人語第2集
   (昭和38年度版)
   はしがき(荒垣秀雄)
   褐エ書房 抜粋)

posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | いじめ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月19日

モンスターペアレントが「いじめ」の加害者を育てる

'12年7月19日(木)
[いじめ] ブログ村キーワード

いじめは、加害者が
いなければ成立しない。
集団であれば首謀者と
いうことになる。
小説家田中澄江さんは
こう書いている。

いったい、このいじめの
現状に対して、
先生がたの対応の仕方は
どうなっているのかと思う
けれど

父兄の態度にも問題が
ある


特に加害者の親の中には、
ケガをさせていても、
「親が甘いから
 殴られるような弱い子が
 できるんです」とか、
恐喝をしていても、
「うちの子はもらったと
 言っています」とか、
全くひらきなおって
自衛のために
攻撃的であるのが多い
らしい。
「もらった」とうのは、
恐喝された子が金を渡すと
「もらっとくよ」
というのが、あいさつに
なっているからであろう。

先生や親の中にはよく、
「そのくらいのことで
 くじけては強くなれない」
「成長過程の一つ」と、
いかにももっともらしい
理屈を言うひとがいる
けれど、
感受性の鋭い子もいれば、
一過性のいじめから
解放されて、すなおに、
逆に強くなる子もいる。
しかし、
先生や親が、そのつど、
悪いことは悪いと教えて
こそ
子供の心に本当の
正義感や忍耐力が根づく
のでは
ないだろうか。
(小説家田中澄江
 子供にいい親悪い親
 PHP文庫 抜粋)


著述家植田 聰氏は
先のことを考えて行動せよ
と説く。
加害者になって、
「いじめ」の思い出を
引きずって生きることは、
幸せに生きるための
大原則に触れることに
なるそうだ。

(さて、論旨は)
賢者は、自分がどう行動
するかを決めるとき、
常に先のことを考える。
それは損得勘定で動くと
いうことではない。
将来、
自分がとった行動を
後悔しないかどうかを、
一瞬、想像してみる

ということである。

それをしたことによって、
数日後、
あるいは死ぬときに
後悔しそうだと思うなら、
しないことだ。

たとえば、仕事に行くのが
億劫な日は誰にでもある
だろう。
そのとき、一瞬、想像する
のだ。
会社に行かなかった場合の
ことを。
そして、今ここで怠け心に
負けてしまったがために
評判を落とし、
それまでに培ってきた
信頼を失ったとしても
後悔しないかどうかを
考える。
そして後悔しそうなら
「サボらずに会社に行く」
ということである。

また、ひどく腹の立つ
ことがあったら、
感情のままに怒りを
ぶつけて後悔しないか
どうか、考える。

迷ったときは
将来「やってよかった
と思えることをするのが、
幸せに生きる大原則

ある。
(著述家植田 聰
 「いいこと」がいっぱい
 起こる ブッダの言葉
 王様文庫 抜粋)


植田 聰氏のいう、
賢者の心をもった子供を
育てることで
「いじめ」の陰湿さは
減るのではないだろうか。

それに、子供が
これから世話になる
社会に迷惑をかけない
子供を育てることで
親として
極めて当たり前の
"社会的義務"が
果たせるとも思うの
だが。

参考 関連ブログ
世論が「いじめ」を何とかしなければと思いはじめた
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | いじめ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする