2017年03月21日

寿命が延びたせいか、死や葬式が身近でなくなった

'17年3月21日(火)    
[墓地] ブログ村キーワード

東京の西方に、雑木林を
ふんだんに取り込んだ
広大な墓地がある。
親戚の一周忌の法要に
参列すると、
第一反抗期のはずの
3歳児も、おとなしく
していた。
子供心に厳粛さを
感じとったのか
◆管理所に、
ジョギングに関する掲示が
あった。
趣旨はこうである。
都立の公園墓地であり、
都民の負担で運営されて
いるから、禁止はできない。
墓参りする人の気持ちには、
配慮してもらいたい
◆敷地内には
車が通れる舗装道路もある。
そこでジョギングすれば
よいものを、
墓石の近くにまで
入り込んだ不心得者がいて、
苦情が出たらしい
◆僧籍を持つ日経BP社の
編集者、鵜飼秀徳さんの
近著『無葬社会』を読み、
墓を巡る世相が急速に
変わっていると知った。
大規模な納骨堂が次々と
建てられ、散骨も流行して
いる。
「〇〇家の墓」に入るのが
当たり前、という時代は、
過ぎ去ろうとしているの
だろう
◆先週の本紙文化面に
鵜飼さんの言葉が載って
いた。
<死を考える余裕がある
 ことこそ、本当に豊かな
 社会の証しではないか>。
今日(20日)は春分、
すなわち彼岸の中日である。
世を去った身近な人々を
思い出すのにふさわしい。
(編集手帳 讀賣新聞3/20)

葬式は人を片付ける儀式
である。
葬式の規模などをどう
するかは、故人の家族や
社会への関わり方にも
関係するだろう。
最近は、葬式の日時を
知らせる看板の
掲示箇所数を絞る傾向の
ため、
気付かずに不義理をして
しまうことがある。
葬式は故人の立場で
考えるものなのか、
遺族の立場で考えるもの
なのかも悩ましい。
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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