2016年11月17日

精一杯生きることしか人生の質を高める途はない

'16年11月17日(木)    
[病院] ブログ村キーワード

(生きる)

主人がくも膜下出血を
発症し、意識不明の状態で
救急病院に搬送されたのは、
12年前の8月だった。

「死を覚悟してください」
という医師の言葉は
受け入れがたかった。
私は主人の覚醒を祈りつつも、
気を許せば脳裏に浮かぶ
「死」の一文字に、心を
翻弄されていた。

病状がひとまず安定して
一般の総合病院へ転院した
ものの、意識が戻るわけ
でもない。
主人が徐々に衰弱してゆく
のに伴い、私の希望の灯も
消し去られようとしていた。

私は時折、病棟の一角に
ある談話室に身を寄せ、
患者たちの談笑に耳を
傾けていた。
病室で主人と無言の時間を
長く過ごす私にとって、
声と声の触れ合いは新鮮な
風となり、聴覚を優しく
刺激してくれるからだ。

談笑の輪から少し離れた
窓際の席には、
有名大学の入試問題集を
片手に勉強に励む青年が
いた。
その前向きな姿勢から力を
もらい、再び病室に戻る
のが私の日課だった。

「年内はもたない」
と言われた主人だったが、
何とか年を越すことが
できた。

元日、病院に着いた私は、
主人の病室に行く前に
談話室へ直行した。
道すがら出会った人々が、
新年の慶びに胸を弾ませて
いる様子が無性に恨めしく、
そんな卑屈な気持ちで
主人に会いたくはなかった
からだ。

談話室は無人だった。
私は窓際の席に座り、
晴れ渡った空を仰いで、
心に立ち込めた暗雲を
必死で消し去ろうとして
いた。

ふと気づくと、いつも
この席で勉強している
青年が立っていた。
席を譲ろうとした私に、
青年は「いいですよ」
と幼さの残る笑みを浮かべ、
別の席に座った。

「お正月まで受験勉強、
 偉いね」と声をかけると、
彼は「頭が悪いからね」と
冗談交じりに答えた。
聞けば、まだ高校2年生
だが、入退院が多いため
受験勉強を始めていると
いう。家が元旦から
商売をしているので
外泊をしなかったそうだ。

誰の見舞いかと聞かれ、
私は主人の病状を話した。

「年を越せるとは思って
 なかったの」と
溜め息まじりに呟くと、
青年は急に
表情を曇らせた。そして、
「本人が必死で
 生きようとしているのに、
 家族があきらめてどう
 するの」と厳しい口調で
言った。

意表を突かれた私は動揺を
隠せず、それを見た青年は
あわてて謝罪の言葉を
述べた。

そして、自分は医者から
余命半年と言われているが、
「医者になる」という夢を
病気なんかのために
諦めたくはないから、
命尽きるまで
努力し続けるのだ、と
強い口調で語った。

「人生は死ぬか、
 精一杯生きるかだよ。
 悲劇の真似ごとを
 している暇は
 ないからね」

そう言って、青年は去って
いった。私は電流が全身を
流れるような感覚をおぼえ
た。

微笑みようもない状況だが、
青年に暗さは微塵も感じ
られない。
無慈悲に
襲いかかる宿命に対して、
彼はきっと、悲嘆の道を
死に物狂いで走り抜け、
受容し、そして挑戦へと
たどり着いたのだろう。

無駄と知りつつも未来を
見つめ、熱心に何かに
取り組むことができるか
どうか。
それが人生の質を決める
のだと、私は青年の
生きる姿勢から教えられた。

私は急いで病室に行き、
主人の胸に手を当てて
鼓動を確認した。
青年が言った通り、
主人は精一杯生きていた。
私は、白旗を掲げかけて
いたことを反省した。
たとえ望む結果が得られ
なくても、いま自分に
できる最善のことをしたい。
そう考え、主人の人生の
最終章を笑顔で飾ろうと
決心した。

その後も談話室で青年を
見かけたが、私からは
話しかけなかった。
青年の残された時間を奪う
権利は私にはないと考えた
からだ。

笑顔で会釈を交わす。
それだけで、充分心が
通じ合ったように感じて
いた。

談話室に集う患者から、
青年の不撓不屈の精神に
多くの患者が触発され、
前向きに治療に取り組む
ようになったと聞いた。

病人にとって最良の薬は
希望だ。
それを患者たちに処方した
青年は、すでに立派な
医師だと私は確信した。

間もなく、
主人の再転院が決まった。
最後に青年に会い、
「あなたはすでに立派な
 お医者様ね」と言うと、
彼は、「何のこっちゃ」と
屈託のない笑顔を向けて
くれた。

3カ月後、主人は静かに
46年間の人生の幕を
下ろした。穏やかな表情
だった。

青年の消息はわからない。

けれど、月日がたつほど、
私の心の中で青年の存在が
輝いてくる。
強き一念から発せられた
言葉は、今も私の胸中に
刻み込まれ、彼の魂を
蘇らせる。
青年は、私の心の主治医
として永遠に生き続ける
だろう。
(小森ちあきさん 
 大阪府八尾市・50歳
 「人生は死ぬか、精一杯
  生きるかだよ」
 生きる402話
 第52回PHP賞受賞作
 PHPNo.823'16/12)

posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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