2011年07月13日

会社は社員全員の幸せのために存在するという会社

'11年7月13日(水)
[会社] ブログ村キーワード

会社は誰のものか、という
問いには、複数の答えが
返ってくる。

株主、債権者、経営者・・・・。
伊那食品工業会長の
塚越 寛さんは
違った答えを持っている。
就職難の時代、さらに倍率が
上がりそうな会社である。
その訳は・・・・・・。

私は、1937(昭和12)年、
伊那市に近い駒ヶ根市で
生まれました。
父は洋画家でしたが、
終戦の年(1945)、
40歳の若さで亡くなり
ました。
母は、食料不足で
ただでさえ大変な時代に、
女手ひとつで
5人の子供たちを
育てなければなりません
でした。

わが家は貧乏で、
近所や知り合いの方々から
助けられたので、
子供ながらに、
そのありがたさが身に染みて
いました。
私は中学校の頃から、
「中小企業の社長になる」
と公言し、
情けの通う経営をしたい
という望みを持つように
なっていました。

大学進学を夢見て、
長野県伊那北高校に入学。
しかし、栄養不足のうえに、
アルバイトをしながら
高校に通っていたので
過労が重なり、
2年生の17歳のときに
肺結核にかかって、
退学せざるをえなく
なりました。

当時、肺結核は"死の病"
と恐れられ、
父も同じ病気で亡くなって
いました。

私は駒ヶ根市内の病院に
入院しました。
「伝染(うつ)るから、
 見舞いに行くのは
 いやだ」
という友だちがいっぱい
いました。

傷つきやすい思春期に、
人に厭われる病気に
さいなまれて、
人生の機微や人の情を
感じながら、
生と死のはざまを生きた
のです。

病床に臥して安静にして
いるのが、
いかにつまらないか。
病室の窓から、
外を歩いている人が
うらやましく思えました。

そうして、
健康や働くことの大切さ、
生きるという
主体的に見える行為が、
実は多くの人々のおかげや、
森羅万象によって
生かされているという
感謝の気持ちに変わった
のです。

幸い、手術することもなく、
抗生物質による化学療法で
退院できました。
就職難の時代でしたが、
幸運にも、20歳で地元の
木材関係の会社に就職
しました。
それから1年半後、
社長からこう命じられ
ました。
「(系列の)伊那食品工業は、
 創業して
 半年しか経たないのに
 赤字で潰れそうだ。
 塚越君、
 伊那食品工業に行って、
 会社を
 健全にしてくれないか」

私は21歳にして
「社長代行」の肩書きで、
今の会社の経営に携えわる
ようになったのです。
1958(昭和33)年のこと
でした。

会社の経営が軌道に乗り、
発展する過程で、
社員全員が大変な苦労を
しました。

新しい設備を作るために、
女性社員に炊き出しをして
もらいながら、4日間も
昼夜兼行で頑張ったりも
しました。
そのおかげで、今の会社が
あるのです。
社員が一丸となって
苦労した経験が、
「会社は、社員全員の
 幸せのために存在する」
という考え方につながった
のです。
(伊那食品工業会長塚越寛
 新入社員に自分の命日を
 書かせる会社
 文藝春秋'11/7月号 抜粋)


参考 
 伊那食品工業株式会社
  長野県伊那市にある
  寒天、ゲル化剤の製造業者
  寒天の加工にメスを入れ、
  食品はもとより化粧品、
  医薬品等用途を拡げた

  一般市場では
  かんてんぱぱブランドの
  商品を提供している

  業務市場ではイナアガー
  (アガーは英語で寒天)
  ブランドの商品を提供
   (Wikipedia)
posted by (雑)学者 at 16:45| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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