現代は「個人の尊厳」
ということを
実に口やかましく
申します。
しかし、
その個人が
どこに、どんな尊厳を
持っているかを
学ぼうとはしません。
また
小さな自分を中心に、
他者との関係を
従属的に考えがちな
発想法のために、
自分の主義主張だけが
尊厳だと思いこむ
危険を生じます。
したがって、
他者を軽視しがちです。
一個の自分が中心に
なるとエゴイズムに
なる。
このエゴを
仏教では「自我」と
名づけて戒めます。
なぜなら、
自我は
閉鎖的、孤立的な
存在です。
その壁を打ち破り、
めいめいの穴から
戸外に出て
共通の空気を吸い、
他人の
悲しみや苦しみに
共感しないかぎり、
ほんとうの
個人の尊厳は
ありえない
でしょう。
この自我の考え方を
否定してゆくのを
「空ずる」
と申します。
自我の尊厳は、
決して真実の人間性の
尊厳には通じないから、
般若心経は
「自我のきずなを断て、
無けい礙(むけいげ)」
と呼びかけるのです。
社会や経済の進歩は、
「人間の原点である
欲望を、
知性や理性のよって
昇華した結果である」
といわれます。
いいかえると、
欲望の昇華が
文明社会を築くのです。
特にわが国は、
どのように
世間的な名誉や地位や
生活に恵まれても、
それだけでは
満足されず、さらに、
心の奥の
深い層での充足を
願い求めずには
おれないのが、実は
人間の人間である
証拠です。
この願いがなかったら
「人間」とはいえない
でしょう。
「歓楽極まりて
哀情多し」とは、
この心境です。
官能的な楽しみは
自我を満足させますが、
自我の底にある
真実の自己は、
空しさを感ずる
だけです。
いま、
世間でいわれている
自由とは、
自我の命ずるままに
動くことのように
考えられていますが、
それは間違いです。
実はこの自我から
解放されて、
自我の命ずるままに
ならない自己を
確立するのが
真の自由というもの
です。
自我の執着から
放たれた人こそ、
真の自由人です。
般若心経の冒頭に
「観自在菩薩」の名が
見えます。
観自在菩薩は
観音様のことですが、
真の自由を得て
人間らしい生き方を
願う私たちの象徴
そのものなのです。
(元臨済宗妙心寺派
教学部長松原泰道
般若心経入門
祥伝社黄金文庫)
参考
YouTube-般若心経
タグ:尊厳 エゴ 自我 自己

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