ジャーナリスト
のように
人に会うのが
仕事の人は
それが億劫らしい。
以下は、その
轡(くつわ)田隆史氏の
エッセイである。
このごろ「人見知り」
という古いことばを
あまり耳にしなく
なった。
最も権威ある
日本国語大辞典は、
「見なれない人を
嫌うこと。
多く小児が慣れない
人を見て、
泣いたり、嫌ったり、
はにかんだりする
ことをいう」と
解説している。
「多く小児が・・・・・」
という指摘には、
思わずウムとうなった。
何を隠そう、ぼくは
大の「人見知り」なの
である。
でも、ホントなのだ。
はじめての人に
会うときの気の重さ。
それでいながら、
「人見知り」こそ、
いい記者の
必要条件である、
なんてムジュンを
信じているのである。
なぜ必要条件なのか
といえば、
ニンゲンとは
もともと「人見知り」
する動物であるからだ。
国語大辞典が、
「多く小児が慣れない
人を見て、
泣いたり、嫌ったり、
はにかんだりする」
と説いている通りで、
人はだれでも、
そのように
出発するのだ。
しかし
成長するにつれて
「慣れ」てゆき、
「小児性」は
こころのなかの
後景に退いてゆくが、
完全に消えはしない。
だからこそ、
「いい記者」とは、
「人見知り」で、
いつでも自他を
励まして、
「会う」ように、
努めている努力の人
である、
と愚考するのだ。
江戸時代の文人、
蜀山人に、
「世の中に人の来る
こそうるさけれ/
とはいうものの
お前ではなし」
という狂歌がある。
夏目漱石の弟子で、
芸術院会員に推薦
されたのに、
「いやだから、いやだ」
といって断った作家、
内田百閧ヘ、
これをもじって、
自宅の玄関入口に
はっていた。
「世の中に人の来る
こそうれしけれ/
とはいうものの
お前ではなし」
ぼくは、
この二つの狂歌の
いわば中間あたりに
気分を設定する。
他人に会いたく
ないんだよなあ、
でもお前だから
というわけでは
ないんだ、
とぼやきながら、
結局は会う。
そんな、
イヤイヤ気分で、
けっこう大勢の
人に会ってきた。
「マンデラ」という
アダ名で呼んでいる
人物もそのひとりで、
人種差別と闘った
南アフリカの偉大な
元大統領にソックリ
なのだ。
この人物は、
初対面の瞬間に、
ぼくを「人見知り」の
典型だと見抜いて
いたらしい。
おかげで多種多様な
「ご同類」に
紹介された。
ところが、
やがてぼくはハッと
悟ったのだ。
この「マンデラ」も
またひどい
「人見知り」だった
のである。
転機は、
人はだれでも
「人見知り」なのだ
と悟ったときに
訪れたという。
さて冒頭に、
このごろ「人見知り」
という古いことばを
あまり耳にしなく
なったと記した。
インターネットの
普及などが原因で、
キカイに
向かい会っている
のはいいけれど、
生身の人に会うのが
苦手、面倒という
人が増えているのに
不思議である。
それは「人見知り」
とは異質な何か
なのだろうか?
なあに、ほとんど
同じなのである。
さあ、思い切って
声を出してみよう。
「おはよう」「今日は」
「ありがとう」
「さようなら」と。
あいさつは記号
ではなく、
互いを励ます祈りの
ことばなのだ。
(ジャーナリスト轡田隆史
「人見知り」という
共通語PHP09/11抜粋)
難しい用件のある
相手と会うのは、
身構える必要が
あったりとかで
億劫だが、
思った以上の
成果をあげることも
多い。
人見知りの努力への
ご褒美であろう。

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”インターネットの
普及などが原因で、
キカイに
向かい会っている”
「キカイに向き合っている」というより
何か魑魅魍魎がむこうにいそうな気がして…
…
でも
むかしパソコン通信時代には
cugというのがありまして
信頼しあえる友達と
本音でチャットをしたものです。
…
いまは警戒しないと(というよりタブー/ルールを熟知しないと、というべきでしょう)
思い切ったアクションに踏み出せません。
悲しい時代になりました。