古橋広之進。
静岡県浜名郡
雄踏小学校6年の時に
100mと200mの
自由形で
学童新記録を
樹立した。
その際、新聞報道で
「豆魚雷」との異名を
付けられた。
その後、
浜松第二中学校
(現・静岡県立
浜松西高等学校)
へ進学したものの
太平洋戦争の激化により
水泳を続けることが
できなかった。
勤労動員で
砲弾工場で
作業していた際に
旋盤に左手の中指を
挟まれ、
指先を切断する
という
事故に遭っている。
事故に遭った頃は
「もう泳げない」と
かなり落胆していた。
(Wikipedia)
古橋広之進氏急死の
報に接し、
気になっていたので
駅の売店で
スポーツ紙を購入。
現役時代のまさに
飛び込もうとするときの
写真を見ると
左手中指の第一関節
から先がない。
「もう泳げない」とは
このハンデの大きさが
わかっていたからであろう。
速く泳げないだけでなく
左へ寄ってしまって
まっすぐに泳げなかったに
違いない。
それを練習によって
克服したのであろう。
'48年8月、日本が
招待されなかった
ロンドン五輪の日程に
合わせる形で
開催された
日本選手権の
400メートル自由形と
1500メートル自由形で
世界記録をマーク。
なかでも、1500自では
当時の世界記録を
21秒8も短縮する
18分37秒0という
驚異的な記録で優勝。
同五輪での優勝タイムも
大きく上回った。
2日後の400自でも
世界記録を打ち立て、
敗戦に打ちひしがれた
国民を熱狂させた。
'52年ヘルシンキ大会は
日本選手団主将を
努めたが、
400自で8位に
とどまった。
これは、
'50年の南米遠征で
口にした
「たった一杯の
コップの水」が
アメーバ赤痢を誘発し、
本来の力を
取り戻すことが
できなかったことが
影響していた。
昨年、
スポーツ競技者として
初の文化勲章を受章。
受賞を祝う会で
座右の銘を披露した。
「戦争が終わって、
再び水泳ができる
ようになった時、
“魚になるまで泳ごう”
と思った。
私の目標は世界一に
なることだった。
だから
人の何倍もの練習を
苦しいとも
思わなかった。
人間というものは、
大きな目標を持って
一筋に努力し、工夫し、
苦しみにも耐えてこそ、
大きく成長していける
ものだと思う。
私は水泳から
多くのことを学んだ。
『泳心一路』は、
そんな私のこころに
ひびく言葉である。
古橋広之進」
(サンケイスポーツ8/3)
国際水泳連盟副会長、
日本水泳連盟名誉会長、
水泳の世界選手権が
開かれているローマで
亡くなった。
生涯、魚のように
水の中で生活された
ような人である、合掌。
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