良寛禅師が
長岡の上州屋にきたとき、
「私の家は商売をして
いますが、
看板の字がまずいのは、
商売に差支えますので、
看板の字を書いて下さい」と
頼まれたという。
良寛禅師は筆をとって
「酢醤油」、「上州屋」と
書いてあげた。
上州屋は喜んで
それを店の障子戸に
貼っておいた。
通りかかった亀田鵬斎が、
それを眺めて
「これは良寛さまの字では
ないか。
私が書いてあげるから、
良寛さまの書は
奥にしまっておきなさい」と
いって書いてやり、
それを障子戸に貼らせた
という。
巻菱湖が鵬斎の書を見て
「もったいない。
私が書いてやるから、
鵬斎さんの書はしまって
おきなさい」といって
看板を書いてやったという。
そして、
またまた通りかかった
富川大塊が
「これはもったいない。
俺が同じものを
書いてやるから、
奥へ引っ込めて
おきなさい」といって
「御用 酢醤油」の看板を
書いてやったという。
良寛禅師が分水町の解良家を
訪ねたとき、
若い桶屋が大きな鍋蓋を
作っていた。
桶屋は把手をつける溝を
彫ろうとした。
木目に沿って彫ろうと
したために、
一直線に裂け目が入って
しまった。
がっかりした桶屋はそれを
捨てようとした。
良寛禅師は、
捨てるのはもったいないので、
それを貰い、
「心月輪」と書いたという。
解良家では大変喜んでそれを
台所の壁に掛けておいた。
「心は月輪(がちりん)なり」で、
月のような丸い心である。
密教でいう仏の心であり、
悟りの心である。
良寛禅師が燕の町を
托鉢していたとき、
子どもたちが元気に凧を
揚げていた。
その凧に見とれていたら、
一人の子どもが紙と墨を
もってきて、
「これに字を書いてください」と
いった。
「何にするのかね」と聞くと、
「凧にしたい」と答えた。
そこで、良寛禅師は
「天上大風」と
書いてやったという。
これは、宇宙には、
仏様の慈悲で満ちている
という意味だとか。
「かくれんぼ」や
「毬つき」などで
子どもたちと遊び、
宗門の戒めに背いて、
酒を飲み、煙草を吸い、
印可の偈(げ)を
受けながら、寺の住職にも
ならず、
僧侶であっても、
経を読まず、説教もしない
(新潟良寛研究会HP)。
松本市壽氏によれば
島崎藤村は
「良寛は老年になって
手毬をついて遊んだ。
芭蕉は独り居て
水鶏(くいな)笛を吹いた。
よほど寂寞と孤独を
経験した人たちで
なければ、
手毬をついたり、
水鶏笛を吹いたりして
心を慰めるところまでは
いくまい」と
書いているそうです。
仏道修行を通じて得た
悟りを書にして残せば、
声としての説教は、
次の瞬間に消えてしまうが、
形として残る書であれば、
それを眺めるたびに
人はその教えを
その人柄とともに
思い起こすでしょう。
また、その教えを
後世に永く伝えるためには
良寛禅師のような
大切に保存される
能書家の書でなければ
なりません。
人は自分の使命を
自覚したときに
強くなれるのでしょう。
たとえ、四面から楚歌が
聞こえてきたとしても。
参考
亀田鵬斎(ぼうさい:1752/10/21 −1826/4/15)
江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人
巻 菱湖(りょうこ:1777/ −1843/5/6)
江戸時代後期の日本の書家
篆書・隷書・楷書・行書・草書・仮名の
すべてに巧みであることが特徴とされる
平明で端麗な書体は、
世に広く書の手本として用いられ、
「菱湖流」と呼ばれた書風は
幕末から明治にかけての書道界に
大きな影響を与えた
(以上Wikipedia)
富川大塊(とみがわたいかい:1799−1855)
書画のほか、諸芸万般に通じ、
茶道・聞香・挿花の芸道、
剣術・柔術・弓馬などの武芸から
囲碁・将棋・雙六等、多芸多趣味の人
(新潟良寛研究会)
松本市壽(いちじゅ:1936−)
全国良寛会常任理事、東京良寛会副会長






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