2020年10月08日

文明的とは理解しがたい隣人との共生に耐えるということ

‘20年10月8日(木)

〇内田樹さんのエッセイ
アメリカ大統領選の二人の
候補者の討論を観た。
ほとんど「罵り合い」に近い
ものだった。
相手の話の腰を折って
自説を叫び続けるトランプに
比べるとバイデンの方が
まだしも冷静に見えたが、
それでもトランプを「道化師」
「愚か者」と呼び、
「史上最悪の大統領」と決め
つけた。
これでは取りつく島がない。
アメリカの国民的分断は
根深いと思った。
国民が利害や思想の異なる
いくつかの党派に分断するのは
仕方がない。
しかし、それでも公人たる者は、
自分の支持者だけでなく、
自分の反対者をも含めて
国民全体の奉仕者であるという
「建前」だけは意地でも
手離してはならない。
オルテガ・イ・ガセットは
「野蛮」を「分解への傾向」の
ことと定義した。
「文明はなによりもまず、
 共同生活への意志である」
(『大衆の反逆』、寺田和夫訳)。

人々が
「たがいに分離し、敵意をもつ
 小集団がはびこる」さまの
ことをオルテガは「野蛮」と
呼んだ。それに対して、
「文明」とは
「敵とともに生き、反対者と
 ともに統治する」ことだと
高らかに宣言した。
むろん、容易には実現し
難い理想である。
けれども、この理想をめざす
ことを止めた後、私たちは
いったい何を目標にして
生きてゆけばよいのか。
国民国家というのは
「利害を共にする人々から
 成る政治単位」という
政治的擬制である。
たしかに擬制ではあるが、
この定義を放棄したら
国民国家は維持できない。
当面国民国家という
政治単位以外に使えるものを
持たない以上、私たちは
「できるだけ多くの国民の
 利害が一致する」ような
システムの構築をめざさな
ければならない。
文明的であるというのは
「敵と、それどころか、
 弱い敵と共存する決意」を
宣言することである。
理解も共感もしがたい不愉快な
隣人との共生に耐えるという
ことである。
だから、文明的であることは
少しも愉快でないし、効率的でも
ない。
そういうのは嫌だという人たちは
理解と共感に基づいた同質的な
小集団に分裂してゆくだろう。
だが、繰り返すが、オルテガは
それを「野蛮」と呼んだのである。
アメリカは今
「文明」と「野蛮」の岐路に
立っている。

内田樹(うちだ・たつる)
1950年、東京都生まれ。
思想家・武道家。
東京大学文学部仏文科卒業。
専門はフランス現代思想。
神戸女学院大学名誉教授、
京都精華大学客員教授、
合気道凱風館館長。
近著に『街場の天皇論』、
主な著書は
『直感は割と正しい 
 内田樹の大市民講座』
『アジア辺境論 
 これが日本の生きる道』など
多数
(AERAdot..2020/10/07 07:00)

参考
オルテガ・イ・ガセット
スペインの哲学者
ラベル:大統領選
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする