戦後政治史に刻まれる
一時代を築き、強いリーダー
として内政、外交の両面で
確かな足跡を残したと言えよう。
1982年11月から5年間、
首相を務めた中曽根康弘氏が
死去した。101歳だった。
首相としての在職日数は、
戦後5番目に長い1806日に
及ぶ。
中曽根氏は47年の衆院選で
初当選した。若手の頃は、
吉田首相を厳しく批判し、
「青年将校」と呼ばれた。
岸内閣で初入閣して以降、
要職を歴任した。
66年に中曽根派を結成し、
自民党の実力者5人を称した
「三角大福中」の一角を
占めるようになった。
82年田中派の協力を得て、
首相の座を射止めた。
政権運営で特筆すべきは、
「戦後政治の総決算」を掲げ、
多くの改革を成し遂げたこと
だろう。
内政では
「聖域なき行財政改革」に
取り組み、国鉄、電信電話、
専売の3公社の民営化を断行した。
トップダウンの手法で政策を
決定しつつ、時に民間の有識者も
活用した。大統領的な手法は
その後、多くの政権が踏襲して
いる。
外交面で、今日に至る強固な
日米同盟の礎を築いた功績は
大きい。首相就任当初から
「日米は運命共同体」と強調し、
当時のソ連に対して、日米が
共同歩調を取る姿勢を鮮明に
した。
ロナルド・レーガン米大統領とは
親密な関係を築いた。
「ロン」「ヤス」と日米首脳が
ファーストネームで呼び合う
ようになったのも、この頃から
である。
三木内閣が定めた防衛費の
「国民総生産(GNP)比1%枠」を
取り払い、防衛力の強化に努めた
ことも注目されよう。
中曽根氏は86年、いわゆる
「死んだふり解散」で
衆参同日選挙に臨み、
衆院で300議席を超える大勝を
果たした。
この結果、自民党総裁の任期が
1年延長された。
長期政権の最終盤では、
教育改革に力を注いだ。
2003年まで議員を続け、
当選回数は20回を数えた。
会長を務めた世界平和研究所で
政策提言を重ね、憲法改正に
情熱を傾けた。
18年に発表した政策論集では、
政府に安全保障のコストを
積極的に分担するよう求めていた。
初当選の頃から首相を目指し、
政策やアイデアを大学ノートに
書きつづった。これが政権構想の
土台となった。確固とした
信念を持ち、政策の実現を目指した。
「政治家とは歴史という名の
法廷で裁かれる被告である」が
口癖だった。多くの議員に
かみしめてもらいたい至言である。
(社説 讀賣新聞11/30 3(総合)面)
ラベル:中曽根康弘 日米同盟 民営化