'19年6月26日(水)
最近、老後に2千万円の
「手持ちのお金」が必要だ
という話が、世間で話題に
なっている。
誰によってなされた試算か
わからないが、、もちろん
経済の実情に詳しい
専門家によって算出された
数字だろうから、世間も少し
騒いでいるのだろう。
「あわてて貯金」組も多い
かもしれないが、わが家の
夫がもし生きていたら、
「ボクは下着のパンツと
シャツしか買わないから、
100万円でも余るくらいだ。
古着がいっぱいある
衣装持ちだから、150歳
くらいまで生きても
不自由しない」と
威張って言うだろう。
趣味的吝嗇老人という
人種は世の中にいっぱい
いて、小銭を遺して死んで
どういういいことがあるの
だろう、と私は思うが、
お金を使わないことが
楽しくて、10`先くらい
までは、電車賃を倹約する
ためだけに歩く年寄りも
いる。
亡夫もそうだった。
私の家の近くの駅から
山手線に接続する駅まで
10`あるかないか。
電車賃は190円なのに、
それを惜しんで歩くことも
あった。
「どっちが損か、
あの人に教えてやって
くださいよ。
190円を惜しんで歩くと、
ズボンの裾と靴の底が
減るんだけど、
それがあの人には
わかってないんだなあ」
と年若い男の友人たちは
言っていた。
しかし老年になるという
ことは、一種の精神の解放を
伴うことが、最近私にも
わかってきた。
若い時代には、まだ先が
長いから、病気になっては
いけないという責任感も
つきまとった。
バランスよく食べるには、
好きなものだけ食べて
いてはいけないなどと
考えたものだ。
しかしこの頃の私は、
そんな理詰めの考え方も
やめた。
塩辛が大好きだから、
塩辛だけで一食済ませる
ことも
「老年のすばらしい自由」
の一つだと考えている。
ただし脳の血管障害を
起こさない程度の偏食に
留めることには、責任を
持たねばならないだろう。
しかし皮肉なことに、
長年の節制の結果、
この年になると、
塩辛だけをおかずに2膳
食べようとも思わない。
自然に円満な食べ方を
している。食べ物を
捨てたことがない調理も
お手のものだから、
残りの野菜で、
いためものやお汁も自然に
できている。
つまりどうしても
「体にいい食事」をして
しまう仕組みになって
いるのだ。
何で健康に気をつけるのか。
一度老人の一人として
言っておかねばならないと
思うのは、私としては
決して長寿を望んでいる
からではない。さしあたり
病気になって、周囲に
迷惑をかけないためである。
年をとるほど、
長いレンジでものを考え
なくなり、その場限りの
都合がよければそれでいい、
と思う気分もある。
しかしその半面、長い
視野が生まれている面も
ある。
老年に2千万円貯金が
なくても、飢え死にする
人はないだろう。
人間の心というものは、
すばらしい柔軟性を持って
いて、そういう不運な人が
身近にいれば、誰でも
おにぎり一個さし出すもの
なのだ。
地球は人が恐れるより
はるかに長いレンジで
ものを見て解決する
聡明さを持っている。
(作家 曾野綾子
小さな親切、大きなお世話
産経新聞6/23 2(総合)面)大金持ちのはずの曾野さんは
質素な暮らしをしておられる
ということなのだろう。
地球が長いレンジで
ものを見るということは、
原始の時代から
生きてきた人類は、
叡智を働かせて今後も
生きていけるということ
なのだろう。
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☁|
Comment(0)
|
日記
|

|