2019年03月12日

礼を欠くと悪事を犯す、という新渡戸稲造の戒め

'19年3月12日(火)


外国人旅行者は誰でも、
日本人の礼儀正しさと
品性のよいことに気づいて
いる。品性のよさを
そこないたくない、という
心配をもとに
礼が実践されるとすれば、
それは貧弱な徳行である。
だが礼とは、他人の
気持ちに対する思いやりを
目に見える形で表現する
こと
である。

それは物事の道理を当然の
こととして尊重するという
ことである。

したがってそれは社会的な
地位を当然のこととして
尊重するということを
含んでいる。
だが、それは金銭上の
地位の差を表しているいる
のではない。それは本来、
実生活上の利点に対する
差を表している。

礼はその最高の姿として、
ほとんど愛に近づく。
私たちは敬虔な気持ちを
もって、礼は
「長い苦難に耐え、親切で
 人をむやみに羨まず
 自慢せず、思いあがら
 ない
。自己自身の利を
 求めず
、容易に人に動か
 されず
およそ悪事と
 いうものをたくらまない

ものであるといえる。
ディーン教授は人間の性情に
ついて六つの要素を述べて
いるが、その中で礼が
社会上のもっとも成熟した
果実として、高い地位を
与えられているのはむしろ
当然であろう。

私はこのように礼を高く
評価するものではあるが、
数ある徳行のうちで
最高列に置いているわけ
ではない。
礼を分析してみると、
これはより高い次元にある
他の徳行と関連している
ことがわかる。
そもそも孤立した徳行と
いうものが存在するだろ
うか。礼は武人特有のもの
として賞賛され、それに
相応する価値以上に評価
された。しかしそのために、
かえってにせものが存在
するようになってしまった。

孔子自身も、みせかけ上の
作法は、音が音楽の一要素
であるのと同じように、
ほんとうの礼儀作法の
ほんの一部分にすぎない
ものであることを繰り返し
説いた。

礼儀作法を社交上欠くことが
できないものとして、
青少年に正しい社会上の
振舞を教えこむための
入念な礼儀の体系が
できあがることは当然の
ことのように思われた。
人に挨拶するときは
どのようにお辞儀をする
のか、どのように歩を運び、
どのように座るのか。
などがこと細かな規範と
ともに教えられ、かつ学ば
れた。食事の作法は学問に
までなった。

茶をたてたり飲んだりする
ことも儀式にまで高めら
れた。教養のある者は、
これらすべてのことを
当然のこととして身に
つけていることが期待
された。ヴェブレン氏は
氏の興味深い著作の中で、
行儀作法とは
「有閑階級の生活の産物で
 あって、かつその見本
 である」と実にうまく
いいあてている。

巻末注記
ディーン
アメリカの動物学者、
日本にも滞在した
親日家で甲冑の研究家
としても知られた。

ヴェブレン
アメリカの社会学者、
経済学者。

(新渡戸稲造著(英文)
 奈良本辰也訳 武士道
 第六章 「礼」
 人とともに喜び、人とともに
 泣けるか 
 三笠書房知的生き方文庫)

ラベル:礼 思いやり
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする