2019年02月28日

学校がいじめ認定を受け入れない第三者委とは?

'19年2月28日(木)

和算に昔「0」という
概念はなく、西洋から
入ったのは江戸時代と
いわれる。
なぜ「零」という漢字が
あてられたかは、寡聞に
して知らない
◆漢和辞典を引くと、
「零(こぼ)れる」と
いった字義に出会う。
どんな整数をかけても
答えが0になるむなしさを
表すようで、どこか
さみしい興趣のある漢字
にはちがいない
◆記事を読むなり
「a×0=0」という
計算式が頭に浮かんだ。
長崎市の私立高校2年の
男子生徒(当時16歳)が
自殺した問題である。
「いじめが自殺の要因」
とした第三者委員会の
認定を、委員会を設置した
学校自体が受け入れない
考えを示したという
◆弁護士などで作る
第三者委は昨年11月、
生徒が残したメモや同級生
からの聞き取りをもとに
いじめと自殺の因果関係を
認める報告書をまとめた。
ところが学校は1月、
報告書を受け入れないとする
意向を伝えてきたといい、
遺族はすべてを振り出しに
戻され、がくぜんとした
だろう
◆きのう(26日)現在、
学校は
いじめ防止対策推進法に
基づく調査結果の県の
報告要求にも応じていない。
「零」の字体が示すように
法令に雨を降らしている。
親の思いにも。
(編集手帳 讀賣新聞2/27)

何かが狂っている。
学校現場のいじめ対策への
反乱か。
ラベル:いじめ
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2019年02月27日

キーンさんの研究心には司馬遼太郎氏も一目置いた

'19年2月27日(水)

松尾芭蕉の終焉の地は
大坂の御堂筋だった。
花屋の貸座敷で
病に伏しながら詠んだ
句は知られる。
<旅に病んで夢は枯野を
 かけ廻(めぐ)る>
◆司馬遼太郎さんは
ドナルド・キーンさんを
連れて御堂筋を散歩した
ことがある。そのとき
キーンさんから「花屋」の
跡を尋ねられ、困惑した。
大阪人でありながら場所が
分からない。
方々歩き回り、やっとの
ことで碑を見つけた。
キーンさんはしゃがんで
碑文に顔を寄せたという
◆司馬さんはマッチを擦り
明かりを提供した。
<氏の芭蕉研究に私が
 役に立ったことといえば、
 何本かのマッチの火
 だけだった>と随筆に
書いている
◆どこか日本人とキーン
さんの関係に似ていよう。
教えてもらうことのほうが
多かった。
芭蕉、近松門左衛門、石川
啄木、太宰治・・・研究や
翻訳のすそのは広い。
文学のうちに繊細な美意識や
感受性を見つけ海外に伝える
ばかりか、日本にこれでもか
というほど再発見という
贈り物をくれたキーンさんが
96歳で亡くなった
◆著作やエッセイを感謝の
思いで読み返す方は多い
ことだろう。
人生の旅は終わっても、
本の世界には永遠に
キーンさんの夢がかけ
めぐる。
(編集手帳 讀賣新聞2/26)

今、司馬遼太郎氏の
「空海の景色」(中公文庫)
(下巻)を読んでいる。
よく調べたものだと
感心すると同時に呆れても
いる。
ラベル:キーン
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2019年02月26日

幅広く日本文学を世界に紹介したキーンさん逝く

'19年2月26日(火)


日本の占領が終わった
翌1953年、31歳の
ドナルド・キーン博士は、
念願の京都大学の門を
くぐった。

最初から言葉に不自由しな
かったのは、語学将校の
体験から。
「日本人とは何者か。
 一生かけて勉強しようと
 決めていました」

戦争によって、過酷な
運命をたどった人だった。
米・コロンビア大学で
東洋文学を専攻中、
日米が開戦すると諜報
要員に選ばれ、日本語の
猛特訓を受ける。
ハワイやアリューシャン
列島での従軍を経て、
45年7月まで沖縄で捕虜の
尋問に当たった。
裸体の日本兵士から腰を
かがめて話を聞く氏の
写真がある。遺品となった
多くの日記や手紙も読み、
「日本人は何と内面を
 繊細に語るのか」。
敬意はいっそう増した。

来日後は「奥の細道」の
旅路をたどり、茂山流の
狂言を習い、体験記
「碧い眼の太郎冠者」を
出版した。
キーン青年の奥ゆかしい
物腰と豊富な知識に、
谷崎潤一郎、川端康成ら
大家もたちまち魅了された。
傍ら、近松門左衛門から
太宰治まで翻訳し、
英語圏に紹介した。
三島由紀夫も安部公房も、
氏の英訳にノーベル賞の
夢を託した。

60年に母校コロンビア大の
教授に就き、76年から
「日本文学史」の英語版を
刊行。以降、世界各国の
主要大学で日本研究が
本格化する。司馬遼太郎が
「教授の半生の労によって、
 いまでは世界文明という
 劇場の中で、普遍性という
 イスをもらっている」と
謝辞を贈ったのは90年代
半ば。キーン氏のおかげで、
21世紀のクールでかわいい
日本に関心が集まる素地が、
着々と養われていったのだ。

「苦労なんてないです。
 好きな本を存分に書いて、
 私ほど恵まれた学者は
 いないでしょう」。
2008年に文化勲章を受けた
時も、控えめな笑みを浮かべ、
日本への感謝を繰り返した。

だが、その小柄な背には
堅固な美意識の軸が通って
いた。能、浄瑠璃、書画、
骨董。手加減しない批評も
この国への愛情ゆえ。
1年の前半をニューヨーク、
後半を東京・北区の
見晴らしのよい簡素な
マンションで過ごし、
明治天皇、足利義政らの
評伝に打ち込んだ。

そして東日本大震災――。
外国人の離日が相次いだ
ことに心を痛め、
「今こそ日本人に
 なりたい!」と国籍
取得を表明。私たちは
またも計り知れない
励ましを、氏から与え
られた。

文学者ラフカディオ・
ハーン(小泉八雲)、
美術史家フェノロサ、
外交官ポール・クローデル、
建築家ブルーノ・タウト。
この国の美の発見者は
幾人もいたが、これほど
日本人と苦楽を共にした
西洋人がいただろうか。
会うたびに懐かしさが
込み上げる、その笑顔には
もう、お目にかかれない。

墓はすでに東京下町の寺に
立つ。キーンにちなんで
墓石の表面に描かれた
犬の絵「黄犬(キーン)」は、
幼少期、ニューヨークの家に
いた愛犬ビンゴの姿だ。
(編集委員尾崎真理子)
(評伝 讀賣新聞2/25
 29(社会)面)


日本国籍取得後、
姓名を前後が逆の日本式に、
「Donald (Lawrence)Keene」
からカタカナ表記で
「キーン ドナルド」に
したという。

親交のあった三島由紀夫
とは「魅死魔幽鬼夫」、
「鬼怒鳴門」という宛名で
手紙のやりとりをしたと
聞く。

参考
茂山流(茂山家)
狂言は、茂山家の属する
大蔵流と、野村萬斎ら
野村家が属する和泉流が
伝わる。大蔵流の中でも、
京都で育った茂山家の芸は
柔らかくて軽妙な芸風。
(コトバンク)

89歳で永住するドナルド・キーン氏の雅号は鬼怒鳴門
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2019年02月25日

直木三十五の何とかなると悲壮感のない借金生活

‘19年2月25日(月)

小社(読売)の大先輩、
佛子寿満(ぶつしすま)は、
長女を出産してすぐ記者
として働き始めた。
大正5年5月のことだ。
子守と家事は夫の担当だった。
イクメンで、乳をせがむ
子供のため、わざわざ社に
出向くことがあったとか
◆夫は直木三十五、その
名を文学賞に残す希代の
作家である。命日のきょう
(24日)、横浜市の長昌寺
では『南国太平記』に
ちなんだ南国忌が営まれ、
ゆかりの人らが遺徳を
しのぶ
◆記念の碑に
「藝術は短く 貧乏は長し」
と刻まれた人だ。
暮らしは生涯窮迫していた。
おいっ子の植村鞆音さんが
『直木三十五伝』
(文春文庫)でつづる逸話は、
型破りだが、悲壮感に乏しい
◆寿満の記者生活はわずか
数か月で幕となる。
冬物を全て質入れしたのが
理由だった。
<いくらなんでも外を
 歩けない>
<よし、止めろ。なんとか
 なる>。
大勢の借金取りを前に悠々と
眠る。
ついに夜となって、一言
<出来たら払ふ、今はない>
◆あんな愉快な人は
ありませんよ、と債権者に
言わしめたそうだ。
執筆に邁進し、出版社経営や
映画制作にも乗り出した。
何かと世知辛いきゅうきゅう
した昨今である。
金に縛られない心が、ただ、
まばゆい。
(編集手帳 讀賣新聞2/24)
ラベル:イクメン
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2019年02月24日

今次大戦の戦場から生還された方の独り言

'19年2月24日(日)

父からの宿題
(埼玉県蓮田ミルクセンター
 宇田則子さん67歳)

 
「君は故郷に帰りたまえ。
 そしてたった一人の
 お母さんと、大事に暮らし
 たまえ」

父は生前、ふと独り言を
漏らす癖があった。
格言、故事成語、お経や
詩歌の一節・・・・・・語り出す
きっかけが推し量れるものも
多い中で、この言葉は
異色で忘れ難く、出典が
あるのかどうかすらわから
ない。

唐突に始まる迫真の芝居の
ようだと、母と私たち姉妹は
笑った。それでいて、
傷心の友をいたわり慰める
ように語りかける父の声に、
幼い私も故知れず胸が
いっぱいになるのだった。
なあにそれ? と尋ねても
父も照れたように笑うばかり。
私たちは笑うことでその
台詞の哀しい余韻を、吹き
消そうとしていた。

どんな脈絡でそれを
しばしば口にしたのか。
ひとりの胸にしまったまま
父が74歳で他界し、もう
30年になる。

父に叱られたことが一度も
ない私が父の大切な眼鏡や
小物をうっかり壊しても
真っ先に怪我を気遣った。
病の床の苦しい息で、
病院に駆けつけた私の
帰途を心配した。
どんな説教や教育よりも
父のおおらかな愛情は
私の道を力強く照らして
くれた。今もなお。

優しさだけでなく、
家族の知らない激しさも
あったはずだ。
夢や負けん気、冒険心に
満ちた20歳の若者は単身、
当時国策だった満州へ
渡った。

「馬に乗って草原を
 どこまでも走ったよ」

はるかな地平線を望むように
少年の目をしたが、満州国は
余所の人の土地に築いた
砂上の楼閣、夢は潰えた。

終戦直前に招集された
戦争についても言葉少な
だった。兵士たちに武器
すら行き渡らない末期的な
日本軍に圧倒的な戦力の
ソ連軍の猛攻。すぐ隣で
息絶えた戦友。軍隊の
理不尽と上官の暴力。
極寒に飢え、強制労働の、
死と隣り合わせの抑留
生活・・・・・・九死に一生の
生還。

帰国し結婚して、生まれた
姉と私は父にとって奇跡
だった。そう思い至った
とき父の筋金入りの
優しさが腑に落ちた。
反戦を声高に語ることは
ないが、権力への嫌悪、
虐げられるものへの共感は
父の底を常に流れていた。

――だいっじにくらしたまえ。

父の真似をしてつぶやいて
みる。

何かに突き上げられる
ようにその言葉を口にする
とき、父が語りかけていた
のは、爆撃に散った戦友
たち? 氷点下20度を下る
収容所の朝毎に、凍りついた
一枚きりの毛布から二度と
起き上がることなく、凍土に
打ち捨てられた仲間たちか。
蜂の巣の銃撃に身を躍らせた
刹那、20歳で決別したはずの
母親を思わず呼んでいた
という父自身だろうか。

お父さん。
両親に守られ呑気に育った
娘は宿題を解くのに
こんなに時間がかかって
しまいました。

あの戦いのさなか、
お母さん!と叫んで逝った
兵士たち、声に出す
こともかなわず亡くなった
おびただしい人々への、
あれは鎮魂の言葉だったの
ですね。
(読者のエッセー入選作
 テーマ 大切にしている言葉
 選者 作家落合恵子
 森永のサークル誌
 マミークラン‘19/2
 森永乳業(株)市乳統括部)


現代の日本人は、
NHK番組のチコちゃんに
ボーっと生きてんじゃねーよ、
と叱られそうな日々を
過ごしているかもしれない。
ラベル:宿題
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☁| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする