'19年2月24日(日)
父からの宿題(埼玉県蓮田ミルクセンター
宇田則子さん67歳) 「君は故郷に帰りたまえ。
そしてたった一人の
お母さんと、大事に暮らし
たまえ」
父は生前、ふと独り言を
漏らす癖があった。
格言、故事成語、お経や
詩歌の一節・・・・・・語り出す
きっかけが推し量れるものも
多い中で、この言葉は
異色で忘れ難く、出典が
あるのかどうかすらわから
ない。
唐突に始まる迫真の芝居の
ようだと、母と私たち姉妹は
笑った。それでいて、
傷心の友をいたわり慰める
ように語りかける父の声に、
幼い私も故知れず胸が
いっぱいになるのだった。
なあにそれ? と尋ねても
父も照れたように笑うばかり。
私たちは笑うことでその
台詞の哀しい余韻を、吹き
消そうとしていた。
どんな脈絡でそれを
しばしば口にしたのか。
ひとりの胸にしまったまま
父が74歳で他界し、もう
30年になる。
父に叱られたことが一度も
ない私が父の大切な眼鏡や
小物をうっかり壊しても
真っ先に怪我を気遣った。
病の床の苦しい息で、
病院に駆けつけた私の
帰途を心配した。
どんな説教や教育よりも
父のおおらかな愛情は
私の道を力強く照らして
くれた。今もなお。
優しさだけでなく、
家族の知らない激しさも
あったはずだ。
夢や負けん気、冒険心に
満ちた20歳の若者は単身、
当時国策だった満州へ
渡った。
「馬に乗って草原を
どこまでも走ったよ」
はるかな地平線を望むように
少年の目をしたが、満州国は
余所の人の土地に築いた
砂上の楼閣、夢は潰えた。
終戦直前に招集された
戦争についても言葉少な
だった。兵士たちに武器
すら行き渡らない末期的な
日本軍に圧倒的な戦力の
ソ連軍の猛攻。すぐ隣で
息絶えた戦友。軍隊の
理不尽と上官の暴力。
極寒に飢え、強制労働の、
死と隣り合わせの抑留
生活・・・・・・九死に一生の
生還。
帰国し結婚して、生まれた
姉と私は父にとって奇跡
だった。そう思い至った
とき父の筋金入りの
優しさが腑に落ちた。
反戦を声高に語ることは
ないが、権力への嫌悪、
虐げられるものへの共感は
父の底を常に流れていた。
――
だいっじにくらしたまえ。
父の真似をしてつぶやいて
みる。
何かに突き上げられる
ようにその言葉を口にする
とき、父が語りかけていた
のは、爆撃に散った戦友
たち? 氷点下20度を下る
収容所の朝毎に、凍りついた
一枚きりの毛布から二度と
起き上がることなく、凍土に
打ち捨てられた仲間たちか。
蜂の巣の銃撃に身を躍らせた
刹那、20歳で決別したはずの
母親を思わず呼んでいた
という父自身だろうか。
お父さん。
両親に守られ呑気に育った
娘は宿題を解くのに
こんなに時間がかかって
しまいました。
あの戦いのさなか、
お母さん!と叫んで逝った
兵士たち、声に出す
こともかなわず亡くなった
おびただしい人々への、
あれは鎮魂の言葉だったの
ですね。
(読者のエッセー入選作
テーマ 大切にしている言葉
選者 作家落合恵子
森永のサークル誌
マミークラン‘19/2
森永乳業(株)市乳統括部)現代の日本人は、
NHK番組のチコちゃんに
ボーっと生きてんじゃねーよ、
と叱られそうな日々を
過ごしているかもしれない。
posted by (雑)学者 at 00:00| 千葉 ☁|
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